文豪トルストイの末娘アレクサンドラ:激動の時代を強く生き抜く

Russia Beyond (Photo: DEA/Getty Images; Vladimir Rossinsky)
 作家レフ・トルストイの末娘、アレクサンドラは、父の決断力と強さを受け継いでいた。彼女は、看護師であり、兵士であり、文豪の生地ヤースナヤ・ポリャーナにおける学術部門の管理者であり、そして囚人にもなった。ソビエト体制と対立し、生き延びて、アメリカに移住した。彼女の人生の主な目的は、不幸な人たちを助けることだった――たとえ、そのために独裁者スターリンに助けを求めることになったとしても…。

 トルストイ(1828~1910年)は、82歳の高齢でヤースナヤ・ポリャーナの自邸から家出し、旅先で亡くなったが、彼のこの計画について知っていたのは、末娘アレクサンドラ(1884~1979年)だけだった。トルストイが晩年に最も信頼していたのは彼女だ。しかし、幼時の彼女は、トルストイ家で最も愛されない娘だった…。 

「産みたくない!」

レフ・トルストイの妻ソフィアと娘アレクサンドラの肖像画

 トルストイの妻ソフィアは、自分が12人目の子供を妊娠していると知ったとき、「リョーヴォチカ(*レフの愛称)、私は産みたくない!」と叫んだ。次女マリアを難産の末に産んだとき、医師は、これ以上の出産は危険であると警告していた。焦った夫人は、流産を引き起こそうとしたり、熱い蒸し風呂に入ったり、高い戸棚から飛び降りたりしたが、それでも、アレクサンドラは生まれた。 母は幼い娘の育児を省みず、養育を乳母と妹タチアナに任せた。

トルストイの妻ソフィアと娘たち(左から右へ:アレクサンドラ、タチアナ、マリア)

 アレクサンドラ(愛称はサーシャ)はしっかりと教育された。「私は10歳から英語、ドイツ語、フランス語、音楽、絵を教えられた」。彼女は、著書『父の生活』に書いている。「私は毎日9時から12時まで勉強し、その後、朝食と散歩のための休憩があり、それからさらに2時から6時まで勉強した。夜、晩御飯の後は予習した。でも、私はそれほど多くの知識を習得できず、勉強はあまりできなかった…。私のいちばんの関心は、馬、ゲーム、スポーツだった」。彼女の興味は父親とまったく同じだった!

 10代の頃、彼女は、香水やファッションアクセサリーなどの女の子らしいものが嫌いで、玩具としてナイフ、ドリル、やすりなどを選んだ。彼女には男っぽいところが少なくなく、実際、多くの「男らしい」ことを完璧にこなした。上の動画では、彼女がプロのように馬車を操って、村の子供たちにプレゼントを届けているのが見られる。

革命の渦中で

レフ・トルストイと娘アレクサンドラ。ヤースナヤ・ポリャーナ、1909年

 アレクサンドラが16歳になったとき、父は、突然、娘に愛情を注ぐようになった。娘を長い散歩に連れ出し、口述筆記で日記を書かせた。彼が死のわずか前にヤースナヤ・ポリャーナを去ることに決めたとき、その計画を知っていたのはアレクサンドラだけだった。この家族のドラマでも、彼女は完全に父親の側にいた。トルストイが未明に密かに家出したときも、彼女は、途中から父に合流すべく、家出の二日後に、シャモールジノ修道院へ行く。そこに父は、修道女になっていた妹マリアを訪ねていた。アレクサンドラは、父のいまわの時まで父の傍らにあった。その遺言により、父の死後、アレクサンドラは、父の著作権を受け継いだ。

 第一次世界大戦が勃発すると、アレクサンドラは看護師になることを志願した。1965年のインタビュー(リンクはロシア語)で、彼女は救助隊を指揮したと語っている。「そこには、6人の医師、看護師、そして兵士の部隊がおり」、負傷者を病院に搬送したという。

 「最初は手術が『見える』のが怖かったのですが、今では慣れてきました」と、彼女は姉に手紙で書いている。最前線で彼女が最も心を痛めたのは、爆発や銃弾、悲惨な光景ではなく、清浄な水が足りないことだった。ロシア最良の家庭の一つで育った彼女は、衛生面に強いこだわりを持っていた。ところが、その彼女が発疹チフスと敗血症を経験しなければならなかった。

レフ・トルストイ、徳冨蘆花、娘アレクサンドラ。ヤースナヤ・ポリャーナ、1907年

 貴族出身のアレクサンドラにとって、兵士たちの中にいることは危険だった――ボリシェヴィキのプロパガンダに煽られて、農民出身の兵士は、貴族を嫌悪していた。アレクサンドラは、その勇気と精励により聖ゲオルギー勲章を2つも授与されていたにもかかわらず、結局、軍隊を去らざるを得なかった。

 アレクサンドラは、1965年のインタビューで、こう述べている。兵士たちは「レフ・トルストイについてほとんど何も知らなかった。 その名を聞いたことがある人はほぼいなかったでしょう。もちろん、知っている人は、非常な敬意を抱いていましたが。でも、私にとって救いになったのは、私が特別な人間だからではなく、まさに父が私に、庶民を愛すること、彼らの心を理解することを教えてくれたからです。そして彼らは、その愛を感じてくれました。もっぱら、そのおかげで私は救われたのです」 

スターリンの援助、レーニンの沈黙

レフ・トルストイと娘アレクサンドラ。1910年

  ロシア帝国の貴族で元陸軍将校だった父の娘、アレクサンドラは、ボリシェヴィキ革命が起こった後、危険にさらされた。ただ初代教育人民委員(教育大臣)アナトリー・ルナチャルスキーだけが、アレクサンドラをヤースナヤ・ポリャーナの委員(コミッサール)に任命して救ってくれた。

 次の3年間で、アレクサンドラは、父の邸宅の博物館と文学博物館を開いた。彼女はさらに、農民の子供たちの学校を開設し、そのためにスターリンに助けを求めた。

 「元牛舎を見つけて、教室用に改装しました。それから私たちは、自分たちで校舎を建て始めた…。あるとき、学校の建設資金を求めたとき、私はスターリンに直接会ったことがあります…。グルジア風の慇懃さ以外には、彼の中に人間的なものは何も見出せなかった」。アレクサンドラはインタビューで告白している。

 「彼は私に会ったとき、広い部屋の反対側から歩いてきて、私が帰るときもずっとついて来ました。座るときに椅子を引いてくれて、信じられないほど礼儀正しくて、私の要求をすべて満たしてくれました。彼についてはこれ以上何も言えません」

ヤースナヤ・ポリャーナの委員(コミッサール)アレクサンドラ・トルスタヤ

 1920年にアレクサンドラは逮捕された。その1年前、彼女が反ボリシェヴィキの人々を自分のアパートに集めていた、という理由だった。彼女は、強制収容所3年の刑を宣告された。そこへ送られた彼女は、悲惨な状況に衝撃を受けた。レーニンに手紙まで書き、悪臭芬々たる場所に自分を留めおかずに、いっそのこと処刑してほしい、と懇願した。レーニンは答えなかった。しかし、アレクサンドラは6か月後に釈放された。これはおそらく、彼女がヤースナヤ・ポリャーナの農民のために開いた学校のおかげだろう。当局は、彼女が教師として、また父トルストイの博物館の管理者としてもっと役立つのではないか、と考えた。

アメリカからの慈善活動

アレクサンドラ・トルスタヤ。アメリカ、1964年

 ソ連時代、教育は、反宗教プロパガンダに基づいていた。信心深いアレクサンドラは、それに耐えられず、ヤースナヤ・ポリャーナで宗教教育を提唱しようとさえした。事態がさらに悪化しかねないことは明らかだったので、アレクサンドラは日本に移り、その後、米国に亡命した。この後、ソ連では、彼女の画像と名前が書籍や映画から抹殺された。アレクサンドラ・トルスタヤがあたかも存在しなかったかのように。

 しかし、米国でも、アレクサンドラは自分の好きなこと、つまり人々を助けることをやめなかった。彼女は、廃墟となった農場を購入し、トラックとトラクターの運転を学んだ。真のトルストイ家の人間として彼女は自立していた。お金が必要なときは、借金をして必ず返し、「裕福な米国人」に助けを求めることは決してなかった。

 驚くべきことに、10年後の1939年に、彼女はヨーロッパとソ連からのロシア難民の支援を目的とした「トルストイ財団」を立ち上げた。彼女は1941年に米国に帰化し、トルスタヤ伯爵令嬢というロシアの称号を放棄した。

アレクサンドラ・トルスタヤとアメリカに亡命したバレリーナ、オリガ・スペシフツェワ(左)。アメリカ、1964年

 ようやく1978年になって、すでに94歳になっていたアレクサンドラは、ソ連に招かれた。彼女の父親が生まれてちょうど150年という区切りの年だった。しかし、アレクサンドラはすでに衰弱して寝たきりの状態であり、体調不良のため行けないと手紙を送った。

 「ロシアの地でわが国民といっしょにいられないのは、私にとって辛いことです…。心の中では私はロシアを離れたことはありません」。彼女は、1979年9月26日に、ニューヨーク州バレー・コテージで死去した。95歳だった。 

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