2000年代ロシアを彩る代表的な新聞雑誌7選

Kira Lisitskaya (Photo: Avito; Valery Khristoforov/TASS)
 ペレストロイカ後の新生ロシアには独自のメディア市場が形成された。グラビア誌やアート誌、報道からアングラまで、時代を彩ったメディアをご紹介しよう。

Kommersant(Коммерсантъ)

 現在ロシアの重要な報道系メディアKommersantの歴史は1980年代末に始まった。1989年に同名の新聞が創刊され、1990年から定期刊行をスタート。だが、コメルサント紙は革命前、20世紀初頭のニュースレターをその起源と主張し続けている(タイトルの硬音記号ъは当時の名残)。創刊したのは、「ファクト(真実)」という皮肉めいた名称の共同組合で、バックには協同組合連盟があった。コメルサント(実業家)というタイトル通り、本来はロシアで形成されつつあったビジネス界が読者層。彼らは、「非計画経済」における実情を伝える、何らかのファクトを欲していた。

 コメルサント紙はただちにビジネス界の代弁者となる。読者を獲得していった同紙は次々と所有者が変わり(中でも最も忌み嫌われたのは、実業家のボリス・ベレゾフスキーとバドリ・パタルカツィシュヴィリ)、ようやく現在の所有者アリシェル・ウスマノフの手に渡った。2000年代、コメルサント紙の記事はロシア社会のあらゆる分野をカバーした。それぞれの出来事を解釈するにあたり、多くの者にとって同紙の記事は決定的な意味を持つようになった。ポスト・ペレストロイカ期に発生して現代ロシアのメンタリティの象徴の1つとなった新たな階層に、「ニューロシア人」の名を与えたのも、同紙である。

Afisha

 コメルサント紙は毎日のビジネス界の話題をリードしていたが、Afisha誌の領分は余暇の話題だ。創刊は1999年。同種の雑誌が他に無かったこともあり、すぐに人気が沸騰した。2000年代、同誌はモスクワの最高のイベント・ガイドだった。映画、美術、レストラン、音楽、文学など、多くの各種評論家がAfisha誌上で誕生し、新メニューや展覧会、ニューアルバムや映画、書籍をレビューした。娯楽分野の爆発的成長はAfishaに無限と言ってよいほどの素材を提供し、同誌はたちまちトレンドを創出するメディアとなった。

 後に、同誌の影響力はサンクト・ペテルブルグもカバーした。扱う分野も増え、ファッションと美容評論が誌面のかなりの部分を占めるようになった。Afishaの評論家はロシアの娯楽ジャーナリズムのスターとなり、同誌主催のライフスタイルフェスティバル『Afishaピクニック』は夏の一大イベントだった。

 世界的スターたちがロシアのオーディエンスに語り掛けたのも、Afisha誌上からだった。コメルサント紙がビジネス界のバイブルだったのに対し、Afisha誌はクリエイティブ界隈にとってのバイブルだった(そして、そのクリエイティブ界によって誌面が作られていた)。

 Afishaは現在もオンライン版とともに刊行されている。公式サイトは権威あるイベント・ガイドであり、チケット販売の総合サイトでもある。

Medved

 1995年創刊。「熊」を意味するタイトルの、ロシア初の男性向けグラビア誌で、GQやEsquireに先駆けて登場した。創刊メンバーの編集グループには、1990年代のメディア界の巨星ヴラド・リスチェフもいた。極めてロシア的なタイトルながら、中身はいたって欧米テイスト。男性ファッション、アート、音楽評論などである。また、政治や社会問題の長編記事(方向性としては保守・ポピュリズム的)も誌面の大きな部分を占めた。

 2000年代のMedved誌が特に影響力のある人物として取り扱った中には、 ビル・クリントン、ジョルジオ・アルマーニ、ロシアからはTV司会者レオニード・パルフョーノフなどが挙げられる。しかし欧米の大資本メディアホールディングスがロシア市場に進出してくると、これに押され、2011年に廃刊してしまった。

Ptyuch

 新生ロシアの代表的アングラ雑誌として、Ptyuchは今も多くの人に記憶されている。当時は「X世代」と呼ばれた、新世代の興味関心を代表する雑誌だった。そして時代の空気、すなわち、完全なる自由の気風(それはしばしば無法地帯でもあった)を映し出す鏡でもあった。イーゴリ・シュリンスキー編集長のもと、新たな若者世代、「最先端の集団」の注目を集めた。セックスについて明け透けに取り上げ、違法薬物やクラブ(当時は雑誌と同名のナイトクラブも存在した)の話題、スラングを好んだ。

 Ptyuch誌のインタビュー記事には、アーティストのヴラジスラフ・マムィシェフ=モンローのような、当時の忌まわしいトレンドリーダーもたびたび登場した。レイブ、トランス、テクノといった音楽ジャンルがロシアに広まったのも、Ptyuchによる所が大きい。また、オルタナファッションや映画、展覧会の話題も取り扱った。Ptyuchは、ロシアの新たなアンダーグラウンド文化の形成に寄与したと言って良いだろう。 

OM

 現在なら、文化グラビア誌とでも呼ばれただろうか。OM誌は前述のPtyuch誌とほぼ同時期に登場したが、はるかに穏健な雑誌だった。編集部は、音楽からファッションまで、流行のものについては何でも採り上げた。何を着るか、どこへ行くか、などなど、今ではお馴染みの話題が並ぶようになった最初の雑誌の1つがOMだった。そして、人々はOMを参考にした。2006年に廃刊するまでの約10年、OMは雑誌そのものがファッショナブルになり、ライフスタイルに関わるあらゆる分野でメインストリームを決定付けた。だが、ハイブリッドなオルタナ・グラビア誌というポジションは定着せず、VogueやTatlerといった西側の超有名雑誌のロシア版が急展開してくると、最早OMにチャンスは残っていなかった。

WAM (World Art Museum)

 2000年代のアートジャーナリズムに燦然と輝くWAMのバックナンバーは、現在も古書店やブックサービスで取引されている。WAMは、ロシア初となる世界レベルのアート・グラビア雑誌だ。紙質も上等で、限定部数が年6回刊行された。コンセプトは「年鑑」に近く、実際、読者もそのように捉えていた。各号は特定の時代やジャンルを特集。現在でも、各号は事典として通用する。数年を経てコンセプトと名称はそのままに、雑誌形態から書籍形態に移行した。

 「モスクワの現代美術 2000~2003」や、「ロシア・アクショニズム」といった特集は、国内のアート・シーンを詳細に報じた。しかし、豪華なグラビア雑誌、さらに図版入りの本格的な書籍として出版するのは、当時としてもやはり高価すぎた。結局、00年代の終わりとともに、発行者であった有名デザイナーのアルセーニー・メシェリャコフはWAMを廃刊した。

メガポリス・エクスプレス

 ロシア初のタブロイド紙であり、イエロージャーナリズムというジャンルを開拓した。しかし、当初はニュース紙としてスタートしている(例えば、あのアンナ・ポリトコフスカヤも記事を載せている)。しかし1994年に経営破綻すると、方針を転換し、イギリスの「The Sun」を参考とする路線に舵を切った。一面にはスターの写真と、キャッチーな見出しが躍った。

 メガポリス・エクスプレスは記録的な売り上げを叩き出したが、記事の内容の多くは編集部の捏造だった。これが結局、同紙を行き詰まらせることになる(2005年に廃刊)。だが、ミュータント鼠の襲来のニュース、スパイダーウーマンやスターリニスト魔術師のインタビューといった記事は、ロシアのイエロージャーナリズムの派手なスタートとなった。

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