ロシア以外にある壮麗な正教教会(写真特集)

 ロシア正教の教会は世界の多くの国で見られる。それらの多くが真の建築の至宝だ。

 ロシア正教の教会は、さまざまな時期に、さまざまな理由で、世界のさまざまな場所に建てられた。ロシア革命以前、ヨーロッパ諸国では​​、そこに住むロシア人コミュニティのために、教会が建立された。裕福なロシア人は、治療、保養のため、あるいは単に気晴らしのために、欧州に旅するのが通例だったが、ロシアの有名な作家、画家、作曲家もしばしば欧州を訪れた。

 また、西洋以外でも、キリスト教の布教に赴いた宣教師の主導でロシア正教教会が建てられた。 東京復活大聖堂(ニコライ堂)をはじめとする日本の聖堂は、その例だ。

 1917年のロシア革命後には、多くの正教徒が、共産主義政権から逃れて、ロシアから移住した。 これらの人々にも教会が必要であり、それは、信者から集められたお金で建てられたか、地元の教会から、既存の建物が買い取られた。

聖エリザヴェータ教会(ドイツ、ヴィースバーデン、1855年建立) 

 この教会は、ロマノフ家の大公女エリザヴェータ・ミハイロヴナ(1826~1845年)を記念して建てられた。彼女は、ナッサウ公アドルフ(後のルクセンブルク大公アドルフ)に嫁ぎ、ヴィースバーデンに居を定めた。しかし、結婚のわずか1年後、エリザヴェータは、女児を産んで亡くなり、赤ん坊も間もなく死亡した。夫は、亡き妻の墓上に教会を建てた。現在、この聖堂には、欧州最大の正教会の墓地がある。

 19 世紀、ヴィースバーデンは、ロシア貴族の保養地として人気があったため、この聖堂には、かなり多くの信者がやって来ていた。休暇中に、皇帝ニコライ 2 世も、妻とともに来ている。1917 年の革命後の移民により、訪れる信者の数がさらに増えた。教会は今でも活動を続けており、ドストエフスキーにちなんで名付けられた日曜学校も開かれている。

クロンシュタットのイオアン教会(ドイツ、ハンブルク、1907年建立)

 ロシア人コミュニティには、自分たちの教会を建立する可能性が常にあったわけではない。だから、信者たちは、他の教会から建物を借りたり購入したりした。 そのため、一部の正教会の教会は、ロシア建築としては典型的ではない建物にある。

 ハンブルクの「クロンシュタットのイオアン教会」も、そうした経緯でできた。この建物は 20 世紀初めに、ルター派の信徒が建てたが、次第に教区の信徒数が減り、教会を維持できなくなった。 2004 年に教会の建物は、正教徒たちに売却されたが、その際に、「ドイツ福音主義教会」(*ルター派、改革派、合同派の信仰を有する、ドイツにおける20の福音主義州教会の共同体)は、正教会側に大いに歩み寄ってくれた。ロシア人コミュニティは、教会の敷地の代金のみを支払っただけで、建物自体は1ユーロで譲渡された。

 2005年、クロンシュタットのイオアンを記念する日に、成聖(聖別)の儀式が行われた。                                                                                            

救世主キリスト・聖大致命女エカテリナ(聖カタリナ)・サロフのセラフィム大聖堂(イタリア、サンレーモ、1913年建立)

 19 世紀半ばに、ロシア貴族たちがサンレーモを訪れ始めた。医師たちは、肺疾患の治療のためにこのリゾートを勧めた。市内におけるロシアの教会の建立は、皇帝アレクサンドル2世の妻マリア・アレクサンドロヴナが発案したという説がある。

 しかし、この計画は、ずっと後に、ニコライ 2 世のもとで実行された。ようやく1913 年に、まだ完成していない教会で勤行が始まった。

聖ニコライ(ミラのニコラオス)大聖堂(フランス、ニース、1912年建立)

 教会の建設準備は 1900 年に始まり、1903 年に礎石が置かれた。前の皇帝アレクサンドル 3 世の妻、マリア・フョードロヴナ皇太后が建設を後援した。かつて彼女は、夫の実兄であるニコライ皇太子と婚約していた。しかし、彼は、間もなく病気で亡くなり、最後の日々をニースで過ごした。

 教会は、1912 年に皇帝ニコライ 2 世の個人用資金で建てられている。  

アレクサンドル・ネフスキー聖堂(フランス、パリ、1861年建立)

 19 世紀には、約 1千人のロシア人がパリに永住または一時滞在していた。しかし、ロシア大使館の小さな教会では、全員を収容できなかった。そこで、大使館付きの司祭が、新しい教会の建設に乗り出し、自ら喜捨を募り始めた。その際に、正教徒だけでなく、カトリック教徒とプロテスタント教徒も喜捨集めに加わった。

 フランスは 1917 年の革命後、ロシア人の主な亡命先となった。作家イワン・ツルゲーネフ、興行師で「バレエ・リュス」の創始者であるセルゲイ・ディアギレフ、オペラ歌手フョードル・シャリアピン、画家ワシリー・カンディンスキーなど、多くの著名人の葬式がこの聖堂で行われている。

聖ワルワラ(聖バルバラ)教会(スイス、ヴヴェイ、1878年建立)

 ピョートル・シュヴァーロフ伯爵の最愛の娘は、1872年に、スイスのヴォー州で、出産時に亡くなった。伯爵は、娘が正教会の地で、すなわち、正教の教会の傍らで永遠の眠りにつくことを衷心から願った。そこで1878 年に、彼は、聖ワルワラ教会を建立した(彼の娘は、この聖人の名前だった)。

 今日に至るまで、教会では定期的に勤行が行われている。大規模な修復が行われたにもかかわらず、内部の細部には、まだ修復を要する箇所があり、教会は積極的に寄付を募っている。

ゲッセマネのマグダラのマリア教会(エルサレム、1888 年建立)

 教会建立の発案者は、聖地ロシア宣教使節団長アントニン・カプスチンだ。1882 年、ロシアはオリーブ山の斜面にある区画の所有権に関する文書を受け取った。そして、1888 年に教会の建設が終わった。 

諸聖徒教会(ドイツ、バート・ホンブルク、1899年建立)

 教会の建設は、1896 年に枢密顧問官アレクサンドル・プロヴォロフの主導で行われた。彼はまた、建設の主なスポンサーの一人でもあった。

 建物は小さく、60人しか収容できないように設計されている。オーク材による単層のイコノスタシスは、サンクトペテルブルクから特別に運ばれてきた。

聖ニコライ(ミラのニコラオス)大聖堂(アメリカ、ニューヨーク、1902年建立)

 19 世紀末、ニューヨークにはすでに大規模な正教徒コミュニティが存在していた。そこで、最大900人を収容できる教会を建設することが決定された。1900年、教会建設委員会の委員長が、建設資金を求めてロシアを訪れた。彼は、最初の5千ルーブルを皇帝ニコライ2世から受け取り、さらに500ルーブルをクロンシュタットのイオアンから得た。多くの正教徒が二人の例に倣い、短期間で約8万ルーブルが集まった。

 1905 年以来、この教会は「大聖堂」となり、北米におけるロシア正教の拠り所となった。

キリスト復活教会(モロッコ、ラバト、1932年建立)

 アフリカ最古のロシア正教教会は、ロシア移民の要望により 1931~1932 年に建てられた。間もなくモロッコの他の都市にも、正教会が開かれ始めた。

 信徒の数が少ないため、教会閉鎖の問題が繰り返し浮上した。しかし、1980年代~2000年代の新たなロシア移民が、ラバトの教会を救い、2010年代には建物の大規模な修復も行われた。                                   

東京復活大聖堂(通称は「ニコライ堂」。1891年建立)

 ロシア人宣教師、ニコライ(日本大主教。修道誓願前の姓はカサートキン)は、函館の在日本ロシア領事館附属聖堂司祭を務めていた。新たな国にやって来た最初の数年間、彼は、日本の言語と文化を学び、後に祈祷書および『聖書』を日本語に翻訳するほど、この言語を身につけた。彼こそが、日本におけるロシア正教会の創建者だ。

 布教は成功し、東京に正教教会が現れる。大聖堂の建設には資金が必要で、1880年にニコライはロシアへ赴いた。そして、さまざまな都市で説教を行って、13万ルーブルを集めた。1891 年、この聖堂の成聖式が行われた。日本では、「ニコライ堂」の通称で親しまれている。

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