1919 年 3 月のことだ。ロシア全土で内戦が激化するなか、サンクトペテルブルク(当時はペトログラード)のマリインスキー劇場内には不気味な静寂が広がっていた。カーテンが上がり、柔らかな光に照らされたスレンダーな姿が現れた。バレエ『ジゼル』へのデビューを控えたバレリーナ、オリガ・スペシフツェワだ。
音楽が始まると、オリガは動き出し、そのあらゆる動きが優雅さと感情の証となった。彼女は、ジゼルのキャラクターを圧倒的な説得力で体現したため、批評家たちは、彼女の存在そのものがそこに繰り広げられるのを見た、と主張したほどだ。彼らはすっかり魅了され、パフォーマンスから目を離せない。それは将来のすべてのジゼルの基準となるだろう。
この魅惑の演技は、20 世紀の最も偉大なバレリーナの 1 人、オリガ・スペシフツェワの生涯における数多くのハイライトの 1 つにすぎない。彼女は、ロシア南部のロストフ・ナ・ドヌ郊外の小さな村で生まれた。その世界の檜舞台への道は、幼時からの苦難と、並外れた才能、そして世界的な賞賛と続いた。しかし、最後には、貧困と人々からの忘却へと転落していく…。
オリガの父親は、地元の舞台俳優だったが、彼女がまだ6歳のときに亡くなった。5人の子供を抱えて困窮した母親は、結局、オリガをサンクトペテルブルクの孤児院に送った。
4年後、10歳のときに、オリガは天与の才能を買われて、帝室バレエ学校に入学した。アグリッピナ・ワガノワをはじめとする影響力のある教師の指導の下で、オリガは、自然な優雅さと、動きを通して感情を伝える稀有な能力を発揮して、スキルを磨いていった。
天に昇った流星
オリガは、夜空に昇る流星のようにスターダムへ駆け上がっていった。1913年、18歳のときに彼女は、マリインスキー劇場の帝室ロシア・バレエ団(後にキーロフ・バレエ団と改称)に入り、その卓越した技術と表現力豊かな芸術性ですぐに認められた。オリガが最初に真の成功を収めたのは、1916 年 5 月に、マリウス・プティパ振付の『ラ・バヤデール』(バヤデルカ)で、『影の王国』のアダージョを踊り、悲劇のヒロイン、ニキヤ(寺院の舞姫)を演じたときのことだ。
「彼女のアラベスクのような美しさは、(史上最も名高いバレリーナの1人であるアンナ)パブロワに匹敵した。一つ一つのポーズがまるで測ったかのように精確でしっかりしていた」。当時の有名な批評家アキム・ヴォリンスキーはこう述べている。
オリガは次に、ジゼルの役を演じたいと考えていたが、これはパブロワとタマーラ・カルサヴィナの最高のはまり役だとみられていた。オリガは、ジゼルの特徴の細部を掘り下げるために、精神病院を訪れ、患者の行動や表情を研究した。
1919年3月、オリガはついに『ジゼル』の主役を初めて踊り、大成功を収めた。「彼女の跳躍の軽やかさは比類がなく、彼女は芸術の限界を超えていた」。批評家ワレリー・ボグダノフ=ベレゾフスキーは記している。
「彼女のジゼルの演技は、あらゆる存命中のバレリーナを超えていた。芸術性と劇的な解釈において、彼女に比肩する者は誰もいなかった」。バレリーナのヴェーラ・ネムチノワは、1960年5月の手紙でこう振り返っている。「彼女にとってはすべてが至極簡単だった。彼女に匹敵するようなパフォーマーは見たことがない」
外国への進出と栄光
1916年、第一次世界大戦が激化していたが、アメリカはまだ中立を保っていた。ロシアの傑出した総合芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフは、自身が創設し主宰する「バレエ・リュス」の米国公演に、オリガを招いた。彼女はニューヨーク市で、『薔薇の精』と『レ・シルフィード』で、稀代のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと踊った。
しかし、彼女の最初の国際的な大成功は、ディアギレフとともに、1921年にロンドンで、また1923年にブエノスアイレスで公演したときだ。後者ではコロン劇場で踊った。ロンドン公演では、チャイコフスキーの音楽に合わせて、マリウス・プティパ振付の『眠れる森の美女』を踊る。ちなみに、外国では、彼女の名前は長くて発音しにくいため、オルガ・スペシーワ(Olga Spessiva)としばしば呼ばれた。
ロシアに戻ると、ソビエト政権が成立していた。オリガは、共産党幹部のボリス・カプルーンと内縁関係になる(彼は、秘密警察「チェーカー」の将校だったという説もある)。その彼が、1924年にオリガが亡命するのを助ける。当時、出国はますます難しくなっていた。出国ビザが必要だったのに、それを取得するのは事実上不可能だったからだ。
出国すると、オリガは、「バレエ・リュス」の欧州公演に参加した。最初の目的地は、バレエ界の都、パリだった。オリガは、プリマ・バレリーナとして、『白鳥の湖』、『エスメラルダ』、『ファラオの娘』で踊った。 『レ・シルフィード』と『眠れる森の美女』での彼女の演技はとりわけ観客を魅了した。パリの批評家たちは彼女を洗練と優雅さの体現として称賛した。
ディアギレフは彼女について次のように語った。「スペシフツェワに会ったとき、私は腰が抜けるほど驚いた。パブロワよりも見事で純粋でさえあった」
オリガはそのキャリアを通じて、同時代の有名な振付師やダンサーとコラボした。伝説的な名振付師ミハイル・フォーキンとのそれは、『レ・シルフィード』のような古典バレエの、今も記憶される解釈を生み出した。レオニード・マシーヌやセルジュ・リファールなどの名ダンサーとの共演は、彼らの演技を一段と深みのある充実したものとし、瞠目すべき芸術的な力を生み出した。
努力家で完璧主義者
1920 年代から 1930 年代にかけて、オリガという明星は、彼女の技術的才能と天性の優雅さのおかげで輝き続けた。同僚たちは、彼女が非常に勤勉で完璧主義者だとよく言った。1927年、ダンサー・振付師のジョージ・バランシンは、彼女のために特別にバレエ『ラ・シャット』を創作した。 オリガの解釈は、絶妙な音楽性と、踊りで深い感動を呼び起こす稀有な能力で際立っていた。
ディアギレフが 1929 年に亡くなると、彼の「バレエ・リュス」は解散となった。1932年、オリガは新たに結成された「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」に加わり、そこで『白鳥の湖』のオデット/オディールなどのアイコニックな役のほか、もちろん『ジゼル』のタイトルロールを演じた。
「彼女は繊細で物静かな女性だった。いつも時間を守り、一度も癇癪を起こすことはなかった。母親とはかなりべったりで、母は娘にどこにも付き添っていた」。バレリーナのロモラ・ニジンスカは1960年5月付けの手紙で回想している。ロモラは、伝説のヴァーツラフ・ニジンスキーの妻だ。 「夫は、オリガにパブロワに比肩する才能のダンサーを見出したと確信していた」
オリガの仕事は、他の偉大なロシア文化人たちとの交流にもつながった。たとえば、有名な画家・舞台美術家のレオン・バクストだ。
「1921年、ロンドンで私は(彼に)直接会い、バクストが演出、デザインした『眠れる森の美女』を踊りました。1924年、(彼は)パリのオペラ座で働いていました。彼は私のことを監督に話してくれたので、おかげで私は契約を結び、『ジゼル』で踊ることができました」。オリガは友人宛ての手紙で振り返っている。
精神を病む
1934 年秋、オーストラリア公演の最中に、オリガは初めて精神病の兆しを現した。他のダンサーたちは実はスパイで、彼女に毒を盛ろうとしていると疑い出したのだ。1939年、彼女はコロン劇場(ブエノスアイレス)で引退公演を行い、同年、米国に渡り、ニューヨーク市の「アメリカン・バレエ」(現在のニューヨーク・シティ・バレエ団)で教えた。
1941年、彼女の恋人だった富裕な米国人実業家、レナード・G・ブラウンが突然亡くなると、彼女の妄想はますます強まり、世間から隠すのが難しくなった。彼女はニューヨーク市のホテルの一室に隠れ、「スパイが戻ってきた、自分に毒を盛るに違いない」と泣き叫んだ。
1941 年末、米国で独りぼっちだったオリガは、マンハッタンのすぐ北にある精神病院に、慈善活動の対象として入院した。「マダム・スペシーワは、米国に親類縁者がいないし、今の自分や過去についてきちんと話せるほど理性的でない」。ニューヨークの弁護士エドモンド・マンは、1949年11月に書いている。彼は、オリガの代理人を務めていた。
「彼女は時々、自分がかつて偉大なスターだったことに気づくことがある。しかし、妄想と幻覚のせいで、彼女は周囲の状況にほとんど無関心で、自分の個人的なニーズや外見も無視しがちだ」
「私は何度も彼女を訪ねた…。それは胸が張り裂けるような光景だった。…また一人の偉大なダンサーがキャリアを打ち砕かれた。オリガは今日、世界から忘れ去られているが、バレエを愛するわずかな人たちは彼女を覚えている」。ニジンスキーの妻、ロマラは、1960年にこう回想している(*ニジンスキーも、後半生は精神を病んでいた)。
ロシアへの望郷の念
精神病院での暮らしはオリガを苦しめた。ちなみに、この当時、オリガは敬虔なロシア正教徒となっている。ニューヨーク公共図書館のアーカイブは、彼女がその意思に反してそこにとどめられていたことを示している。レニングラード(現サンクトペテルブルク)の彼女の家族とソ連領事館は、彼女を解放してロシアに帰国させようと試みた。
「彼女は、故郷のロシア、レニングラードに戻ることを決意していますが、そこは彼女が子供時代を過ごしたサンクトペテルブルクとはまったく違います。でも、20年間の亡命生活の後、彼女は望郷の念にかられるようになり、自分の家族、兄と姉、そしてロシア人を恋しがっているのです。もう彼女は67歳です。(ロシアに)戻ってそこで死にたいのです」。オリガの親友デイル・ファーンは1962年7月に、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人に宛てた手紙でこう書いている。
1963 年末、オリガは新しい治療法により劇的な回復を見せ、精神病院から退院した。しかし、地元のロシア人移民コミュニティは、極めて反ソ的な立場をとっており、ロシアに帰りたいという彼女の願いをかなえる代わりに、ニューヨーク州バレーコテージのトルストイ財団に預けるよう手配した。
この財団は、文豪レフ・トルストイの末娘アレクサンドラ・トルスタヤによって、1939 年に設立された。ロシア難民を支援し、貧困に直面している高齢の移民に住まいを提供することを目的にしていた。オリガは余生を財団で過ごし、1991年に96歳で亡くなった。彼女は、ニューヨーク州ナニュエットのロシア正教会のノヴォ・ディヴェーエヴォ墓地に葬られている。
1997年1月、サンクトペテルブルクの「ボリス・エイフマン・バレエ劇場」で、『赤いジゼル』が初演された。ロシア革命とその余波に巻き込まれ翻弄されたバレリーナの不安と戦慄に満ちた物語だ。オリガ・スペシフツェワの生涯は、名振付師エイフマンをインスパイアした。
*筆者は、デイル・ファーンとオリガ・スペシフツェワのアーカイブへのアクセスを許可してくれたニューヨーク公共図書館に感謝する。