「私は彼に、未来に多くを約束してくれる画家を見る」
美術アカデミー教授のワシリー・グリゴローヴィチは、アレクサンドル・イワノフの最初の作品を見て、こう評した。父のアンドレイ・イワノフも画家であり、息子が同じ道を進むであろうことは疑いようも無かった。幼少期には早くも絵画への興味が芽生えた。美術アカデミーの多くの学友は学校に寄宿していたが、彼は親の工房で絵画を習得した。その成果は目覚ましく、古典画法を会得した上に、実にドラマチックな一枚を描き上げた。この作品で18歳のイワノフは小金メダルを受賞した。
1830年秋、イワノフは研修のためローマに渡った。システィーナ礼拝堂の『アダムの創造』を模写し、聖書をテーマにした習作を制作するのが目的だった。しかしイワノフは次第に、救世主の最初の降臨を描こうと考えるようになる。まずは練習として別の題材から始めることとし、マグダラのマリアの前に復活したキリストが現れる場面を選んだ。最初に絵を見た人々は感嘆した。文学者アレクセイ・ティモフェーエフは感情を抑えきれず、イワノフはイエスの柔和と偉大さを描き切ったと絶賛した。この絵はカピトリーノで展示された後にペテルブルクに送られ、熱烈に歓迎された。美術アカデミーはイワノフをアカデミー会員に任じ、絵画はニコライ1世に献上された。また、下絵は1877年にパヴェル・トレチャコフが購入した。
イワノフは«キリストの降臨»の制作に殆どの時間を費やしていたが、それでも幾つかの風俗画を残している。ローマの広場や街角で目撃した様々な葛藤もその1つである。水彩画「ローマの10月の祭り」は、「嘆息の踊り」を描写している。女性が別の女性に、自分のハートを盗んだのは誰かと訊ね、周りの者は「下手人」を中央に押し出すというものである。
イワノフの工房には客人も訪れ、その中には皇族もいた。1838年、皇太子アレクサンドル・ニコラエヴィチが教育係のワシリー・ジュコフスキーとともにイワノフを訪ねた。後にアレクサンドル2世となる皇太子はこの作品に満足し、イワノフが本作を完成させるべく、3年間の援助を決めた。
この巨大な作品のために、イワノフは時間に加えて健康までも犠牲にした。眼病のため、数年間にわたり工房での仕事を断念せざるを得なかった。1845年、イワノフは若手モザイク作家のエゴール・ソンツェフとともにローマ郊外へ「美しい場所を探しに」小旅行に出た。彼らはアルバーノ近郊の光景に魅せられ、直ちに制作に取りかかった。古代遺跡と、夕陽に光に遥か彼方のローマを望むこの風景画は、イワノフ自身が未完と考えていた。
ヨルダン河畔で人々の前に現れるキリストを描いた本作は、イワノフが制作に20年を費やしたライフワークだ。最初に小さいバージョンを制作したが、その後、歴史画の大型サイズでの制作を決めた。多くの下絵の他、聖書から本作と関係無いテーマで200近い習作も描いた。
1857年に皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと大公女オリガ・ニコラエヴナが工房を訪れた後、イワノフは10日間、作品を無料公開した。彼の代表作を一目見たいという人々があまり多かったため、公開期間を延長したほどであった。1958年5月、28年ぶりにイワノフは帰国してサンクトペテルブルクに戻った。本作は下絵や習作とともに美術アカデミーに展示され、30万人以上の観客が来場した。しかし帰国から数週間後、イワノフはコレラのために死去。
本作は銀1万5千ルーブルでアレクサンドル2世が買い取った。その後、展覧会のためにモスクワに送られたあと、皇帝は本作をルミャンツェフスキー博物館に寄付した。1920年代にはトレチャコフ美術館に移され、本作専用の展示ルームが建てられた。
展覧会「水彩画の巨匠、アレクサンドル・イワノフ。様式と風景」はトレチャコフ美術館で2023年5月20日~11月5日まで開催。
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