決闘は、詩人アレクサンドル・プーシキン(1799~1837年)の人生と不可分だ。現代の言語学者ミハイル・セレズネフは、詩人の伝記のなかで、決闘および決闘の申し込みを計26回と数えている。しかし、これらは各種資料に同時代人らの回想、証言が残っているものに限っての話だ。なぜプーシキンはこんなに決闘しまくったのか?
「とても若い男で、痩身で小柄で、縮れ毛のアラブ人のような容貌をしており、燕尾服を着ていた」。作家イワン・ラジェチニコフは、20歳のプーシキンの外見をこう描いている。詩人は、ラジェチニコフがデニセヴィチ少佐と共有していたアパートにやって来た。プーシキンは、サンクトペテルブルクのある劇場で後者と口論になったのだった。そして、一人ではなく、介添人となる2人の近衛将校まで連れてきた。
当然、プーシキンは怪訝な目で見られた。劇場でこの若い文官は挑発的に振舞い、それで少佐に注意されることになった。デニセヴィチは、傲慢な貴族にちょっと文句を言っただけだと思っていたが、そうはいかなかった。 「あなたは昨日、多くの聴衆の前で訓戒を垂れてくれた。私はもう学童じゃない。だから、私はあなたと別の形で話をつけに来たのだ」。プーシキンは少佐に言い放った。
「私はあなたと決闘なんてするわけにはいかない」。デニセヴィチは答えた。「あなたは無名の青年だが、私は参謀将校だ」。これを聞いて、プーシキンといっしょに来た二人の近衛将校も笑い出した。
「私はロシアの貴族プーシキンだ。私の同伴者もこれを証明する。だから、あなたは私と事を構えるのを恥じることない」。詩人は答えた。
このときは、口論は和解で終わった。ラジェチニコフは、相手が誰なのかを悟り、少佐に謝罪するよう説得した。このエピソードから、プーシキンが自分への無礼やぞんざいな態度を容認しなかったことが分かる。詩人が若く小柄で文官の服を着ていたせいで、人々はしばしばそんな態度をとり、その結果、彼は頻繁に決闘に巻き込まれた。
以下、本物の決闘に発展したケースについてご紹介しよう。最初の事件は、デニセヴィチとの口論とほぼ同時期に起きている。
友人の詩人ヴィリゲリム・キュヘリベッケルとの決闘:原因は風刺詩(1819年)
詩人ヴィリゲリム・キュヘリベッケル (1797~1846)は、プーシキンとは貴族の学習院「リツェイ」で同窓の友人だったが、非常な癇癪もちの青年だった。やはり同窓のモデスト・コルフの記すところでは、 キュヘリベッケルは、「リツェイ全体の絶え間ない、また容赦ない嘲笑の対象だった」。
歴史家・文学者でプーシキンも研究していたピョートル・バルテネフ(1829~1912)は、こう回想している。キュヘリベッケルは、有名な詩人ワシリー・ジュコフスキーをしばしば訪れては、自分の詩を読み聞かせて、彼をうんざりさせていた。あるときジュコフスキーは、文学の夕べに招待されたが、断った。
「前日にお腹を壊したところへもってきて、キュヘリベッケルがやって来たので家にいることにした」。ジュコフスキーはこう説明した。 これを聞いたプーシキンはたちまち風刺詩を作った。
「私は夕食を食い過ぎたし // おまけにヤーコフがうっかりドアを閉めてしまった。 // そういうわけだよ、諸君。 // 『キュヘリベッケる』し、おまけに胃はムカムカするしね!」(ジュコフスキーの従僕は、実際ヤーコフという名だった)。
「キュヘリベッケルる」という新語は、瞬く間にリツェイ中に広まった。キュヘリベッケルは激怒して、決闘を断固要求した。プーシキンの友人ニコライ・マルケヴィチは次のように振り返っている。
「決闘は冬だった。キュヘリベッケルが先に発砲したが外れてしまった。プーシキンは、ピストルを投げ捨て、友を抱きしめようとしたが、相手は絶叫した。『撃て、撃つんだ!』プーシキンは、銃身に雪が詰まったので撃てない、と無理やり納得させた。決闘は延期されたが、その後、彼らは仲直りした」
某人物(特定されていないがルイレーエフか?)との決闘:原因はフョードル・トルストイによる中傷(1819年)
1819年1月、何者かがサンクトペテルブルク中にこんな噂を流した。プーシキンが、反政府的な詩を書いたかどで、内務省の秘密警察において、鞭打ちを受けたという(*ちなみに、秘密警察は、「デカブリストの乱」の後、悪名高い「皇帝直属官房第三部」に改組される)。
この噂は、有名なならず者で決闘好きのフョードル・トルストイ伯爵(*作家レフ・トルストイの遠縁)によって広められたものだった。噂をまいた張本人が誰か知らないまま、プーシキンは、単にこの噂を人に伝えたある人物に決闘を申し込んだ。
その相手は、詩人の友人であるコンドラーチイ・ルイレーエフだったと推測される。しかし、これについては断片的なメモしか残っていない。
「プーシキンが秘密警察で鞭打たれたという噂が流れたが、ナンセンスだ。サンクトペテルブルクで彼は、そのせいで決闘した」。プーシキンの友人フョードル・ルギニン大佐はこう記している。
7年後の1826年にようやく、プーシキンは、噂の大本を知り、真剣に決闘の準備をした。フョードル・トルストイは、何人もの敵を仕留めた射撃の名手として知られていた。幸いなことに、二人は決闘の前に和解した。後に、他ならぬこのトルストイがプーシキンの名代として、ナタリア・ゴンチャロワに求婚の意思を伝えることになる。
セミョーン・スタロフ大佐との決闘:きっかけはマズルカの演奏(1822年)
セミョーン・スタロフ大佐との対決は、プーシキンの数ある決闘の中でも最も深刻なものだ。それは1822年1月5~6日にキシニョフで起きた。表向き、詩人は当地に「仕事」で送られたことになっていたが、実は、皇帝アレクサンドル1世を風刺した詩に対する罰だった。
集会場で、オーケストラに注文する曲をめぐって、詩人と若い士官の間でちょっとした諍いが起き、それがきっかけになった。このホールには、キシニョフの上流社会がずらりと顔をそろえていた。
プーシキンがマズルカを注文すると、見知らぬ将校がオーケストラにカドリーユを演奏せよと命じた。詩人は笑いながらもう一度マズルカを演奏してくれと言った。ダンスが終わると、青年将校が属していた連隊のセミョーン・スタロフ大佐がプーシキンに近づき、貴殿は部下を侮辱した、と言い放ち、謝罪を要求した。二人の会話は決闘の申し込みで終わった。
二人は翌朝、キシニョフ近郊で撃ち合った。プーシキンの友人ウラジーミル・ゴルチャコフはこう回想している。
「決闘の場所に着くと、猛吹雪が視界を妨げた。二人の敵手は撃ち合ったが、どちらも弾が逸れた。介添人たちは、決闘を後日に延ばすよう勧めたが、両者は、いずれも冷静に決闘の繰り返しを要求した。どうにも致し方なく、ピストルは再び装填された。そして、もう一発撃ち合ったが、またも外れた」
決闘は「別の機会まで」延期されたが、翌日には双方は和解に応じた。
ズーボフ兄弟の一人との決闘:トランプ賭博が原因(1823年)
アレクサンドル・ズーボフとキリール・ズーボフは、ロシア帝国最高の権門の一つの出身だった。彼らの叔父プラトン・ズーボフは、女帝エカチェリーナ2世の最後の愛人であり、父親はパーヴェル1世殺害の共犯者だ。1823年夏、この兄弟(当時の階級は少尉補)は、キシニョフに出張し、そこでプーシキンと接することになった。争いは、トランプ賭博の卓上で起きた。ピョートル・バルテネフは次のように書いている。
「プーシキンはたまたま参謀本部の将校であるズーボフ兄弟の一人とトランプ賭博をすることになった。ズーボフが『いかさま』をやっているのに気づいたプーシキンは、ゲームに負けると、平然たる様子で笑いながら、他の参加者にこう言い出した。こんな負けに金を払うわけにはいかないよ、と。この言葉はその場で広まり、口論に発展して、ズーボフはプーシキンに決闘を申し込んだ。双方は、キシニョフ郊外のブドウ園、いわゆる『マリーナ』(ラズベリー)に赴いた。
プーシキンを怯えさせるのは簡単ではなかった。彼は生まれながらに勇敢で、勇気を育もうと努めてもいた。当時キシニョフにいたウラジーミル・ゴルチャコフを含む多くの人が次のように証言している。
プーシキンは、ズーボフとの決闘に、サクランボを持ってやって来て、相手が撃つ間、朝食代わりにそれをムシャムシャ食べていた。ズーボフが先に発砲したが外れてしまった。プーシキンは、今度は彼が撃つ番だったが、『あなたはこれで満足かな?』と相手に尋ねた。ズーボフは、プーシキンに『撃て!』という代わりに、すっ飛んできて抱擁しようとした。『それは余計なことだ』とプーシキンは彼に言い、撃たずに立ち去った」
数年後、プーシキンが短編『その一発』(連作集『ベールキン物語』に収録)にとり入れたのはまさにこのエピソードだった。「彼(*射撃の名手シルヴィオ)は、銃口を突き付けられながら、帽子から熟したサクランボを取り出してムシャムシャやり、種を吐き出していた。それは私のところまで飛んできた。彼のいかにも平然たる様子が私を憤慨させた」
フランス人士官ジョルジュ・ダンテスとの決闘:妻の名誉を守るため(1837年)
アレクサンドル・プーシキンの最後の決闘が、彼の命を奪うことになった。決闘の原因は誹謗中傷で、プーシキンの妻ナタリア・ゴンチャロワをめぐるものであり、噂の出所はジョルジュ・ダンテスだ。彼は、ロシア軍に勤務するフランス人将校で、プーシキンに義兄に当たった。ダンテスは、ナタリアの姉エカチェリーナ・ゴンチャロワと結婚していたからだ。だから、両者は親戚だったのに、決闘は行われた。これについては、別の記事で詳しく解説している。