ロシアの皇帝たちの主要な宮殿だった冬宮についての10の事実(写真特集)

Russia Beyond (Legion Media, Jean-Marc Nattier / Public Domain)
 サンクトペテルブルクにある贅を尽くしたバロック様式の建物には、現在、エルミタージュ美術館が置かれているが、その歴史は美術館の中にある傑作コレクションよりはるかに興味深く、はるかに豊かなものである。

 冬宮はサンクトペテルブルクの心臓部であり、街のシンボルとも言える建物である。サンクトペテルブルクの主要な広場の「宮殿広場」、ネヴァ川の河岸通り「ドヴォルツォヴァヤ(宮殿)河岸通り」、そして街の代名詞とも言える跳ね橋の「ドヴォルツォヴィ橋」などの名前も、この宮殿にちなんだものである。そしてメインストリートのネフスキー大通りも、この冬宮から街の奥深くにまで延びている。

冬宮

1. この冬宮は5つめに建てられた

 18世紀に、いくつかの冬宮が建設されたが、現存しているのは5つ目のものである。2つの冬宮はピョートル1世の時代に建てられた。1つ目は木造の暫定的なもの、2つ目は石造りのもので、ピョートル1世は晩年そこに住み、そこで亡くなった。長年、この建物は失われたものと考えられていたが、1970年代から1980年代にかけて、部屋の一部がエルミタージュ劇場の下から発見され、現在、その再建工事が行われ、公開されている。

ピョートル1世の2つ目の冬宮

 3つ目の宮殿は、再建されたピョートルの宮殿で、女帝アンナ・ヨアノヴナ(ピョートルの姪)の屋敷と考えられていた。政権に就いたピョートルの娘、エリザヴェータ・ペトローヴナはより豪華で、より広い宮殿を必要とした。そこで、彼女のために4つ目の暫定的な宮殿が建てられた。しかし、その宮殿は解体され、そして5つ目となる今の姿の宮殿が建てられたのである。

2. イタリア人が設計 

海軍本部から見た冬宮、衛兵の整列、ワシリー・サドヴニコフ作、1830年

 バロック様式の壮大な宮殿の最終設計は、エリザヴェータ・ペトローヴナの主任建築家であったイタリアのバルトロメオ・ラストレッリが作成した。ラストレッリは彼女のために、いくつかの宮殿を設計したが、この冬宮はもっとも豪奢なものになるはずであった。しかし、建設期間は8年におよび、エリザヴェータ・ペトローヴナは完成までに亡くなった。

 ピョートル3世の短い統治期間の後、クーデターを経て、その妻のエカテリーナ2世が政権に就いた。そしてもちろん、エカテリーナ2世も宮殿を自分の好みに建て替えようとした。1760年代半ば、彼女の勅令により、バロック様式のひだ飾りが取り外され、より厳格な外観となった。またエカテリーナは寵児だったグリゴーリー・オルロフを近くに住まわせるため、いくつかの部屋を作り替えた。

3. 主要な皇帝の宮殿は建設150 

夜の冬宮

 「冬の」宮殿と呼ばれるのには理由がある。皇帝たちは夏の間、郊外に行くのを好み、それぞれ豪華な屋敷を持っていた。それも、ペテルゴフ、ツァールスコエ・セロー、パヴロフスクなど、一つではない。どの屋敷にも美しい公園があり、数えきれないほどの娯楽イベントが行われた。

1906年4月27日第一回国家会議開幕を記念した宴会、V.V.ポリャコフ作

 そして冬になると、エカテリーナ2世をはじめとするロマノフ王朝のすべての皇帝たちは冬の宮殿に住んだ(ちなみに、宮殿には、それほど広い空間を暖めるため、400以上の暖炉があった)。冬宮は玉座の間を持つロシアでもっとも主要な皇帝の宮殿であった。

1812年の軍人の肖像画の間、エドゥアルド・ガウ作、1862年

 1905年、第一次ロシア革命が勃発し、ニコライ2世は人々の目に触れるサンクトペテルブルクの中心部には住みたがらなくなった。そこで、主な屋敷をツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿へと移し、そこで12年間、家族と共に暮らした。

4. 部屋は1000室以上 

冬宮と宮殿広場の景色

 冬宮は3階建てで、中庭を含めて長方形になるよう作られていた。fファサードは4つ(構成は少しずつ異なっている)で、広場に面した南のファサードが正面玄関で、3つのアーチで飾られている。北のファサードはネヴァ川に面している。

北のファサードとドヴォルツォヴァヤ河岸通り

 建物は2列の無数の円柱で飾られている。屋根の周囲には彫刻と花瓶が設置されている。

大使の階段(ヨルダン階段)

 建物のネヴァ川側の全長は210メートル、高さは23.5メートル。1844年の皇帝の勅令により、サンクトペテルブルクに、冬宮よりも高い住宅を建設することは禁じられた。

 冬宮には1084の部屋がある。祭典の間、客室、私室・・・すべての部屋のインテリアがそれぞれ芸術作品である。宮殿に住んでいた皇帝一家の一人一人に10室以上の部屋が居室として割り当てられた。皇帝の妻(エカテリーナ2世以降、皇帝になったのは男性のみ)には、個別の部屋が与えられた。宮殿には皇帝の子どもたちも住んだ。またたとえば子どもの婚約者もここで暮らし、結婚式を終えた後に別の宮殿に移り住むことが多かった。

皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの寝室、エドゥアルド・ガウ作、1870年

 ときに、高位の要人のために、いくつかの間を設けなおすこともあった。また冬宮には、皇帝の招待により、皇族ではない人々が宿泊することができた。また宮殿には、使用人や女官が暮らしていたが、彼らにも最大で3室が与えられた。

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5. 第一次世界大戦時は病院に 

ニコライの間が病室に変わる

 皇帝一家が引っ越した後、誰もいなくなった宮殿の部屋は、皇帝の意向により、第一次世界大戦で戦う軍のために使われることになった。1915年、ここに皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチ記念軍病院が開設された。6つの部屋に、負傷者のためのベッドがおよそ1000台設置されたほか、これとは別に手術室も設けられた。皇后自身、皇女たちとともに、負傷者の手当てに従事した。

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6. 1917年の革命のシンボルに

映画「冬宮の制圧」のシーン、1927年

 1917年の10月革命で、ボリシェヴィキが権力を掌握した重要な事件となったのが、「冬宮の襲撃」である。宮殿に兵士たちが駆け寄る記録映画の有名な場面は、撮影のため特別に演出されたものである。実際には、冬宮はほぼ平和のうちに「占拠」された。何発かの砲撃は宮殿の上部を掠っただけで、また巡洋艦「アヴローラ」は空砲を1発、発しただけであった。冬宮に置かれていた臨時政府の警護は弱く、また裏門はまったく施錠されていなかったため、襲撃したボリシェヴィキは血を流すこともなく宮殿内に入り、政府のメンバーを逮捕した。

7. 第二次世界大戦時には防空壕に

戦時中、冬宮の職員たちは、絵画作品の額縁をあったべき場所に置いたままにした。疎開させた絵画作品が戻ってきたとき、できるだけ早く作品を元の場所に戻すためである。

 1941622日、美術館の職員たちは、疎開させる作品を急いで集め始めた。1ヶ月に間に、100万点以上の芸術品が梱包され、安全な場所へと移された。しかし、それでもすべては運び出せず、19419月にはレニングラード封鎖が始まった。

爆撃を受けた後の馬車小屋

 冬宮の部屋や地下には、防空壕が作られ、最大2000人の人々が砲撃や爆撃から身を守った。多くの職員たちは家族と共に宮殿の中で生活し、宮殿に残された展示物を守るという任務を遂行し続けた。冬宮は何度も砲撃を受け、いくつかの間、入口階段は激しい損傷を受けた。また砲弾は皇帝の馬車小屋を直撃した。

 レニングラード封鎖が解けた後の1944年、冬宮は再び、来訪者を受け入れるようになった。しかし、修復作業、復興作業は、その後も長く続くこととなった。

8. 現在の色になったのは20世紀になってから

アドミラルチェイスカヤ広場(19世紀末のポストカード)

エカテリーナ2世時代、宮殿は、フランスやオーストリアの王宮のような砂色であった。19世紀半ば、ニコライ1世はファサードをレンガ色に塗り替えるよう命じたため、革命を迎えたときは宮殿はレンガ色であった。

ロシアの皇帝たちは緑色の冬宮を見ていなかったと思われる

 ピスタチオのような緑色に白い円柱を持つ今の外観になったのは、ソ連時代の1946年のことである。これは、戦後の復興事業の結果である。

9. 現在、冬宮にはエルミタージュ美術館が置かれている

 冬宮はロシアの主要な美術館であるエルミタージュの本館であるが、エルミタージュの建物はこれだけではない。エルミタージュ美術館の創設は1764年、エカテリーナ2世が膨大な絵画コレクションを手に入れたときと考えられている。それらの絵画作品のために、エカテリーナ2世は「小エルミタージュ(1人になれる場所)」と呼ばれる小さな別館を作った。

 コレクションはどんどん増え続け、その結果、もう一つの大きな建物「大エルミタージュ」が建設された。これは美術館にすることを目的として建てられたものであった。実際、冬宮が美術館になったのは革命後で、ここにコレクションの一部が移され、周辺の離れが通路で繋がれた。エルミタージュはもっとも訪れる人が多い、西洋とロシアの貴重な作品が収蔵されているロシア最大の美術館である(主な傑作はこちらから)。

10. ネコが住む宮殿

 エルミタージュのネコは、非公式ながら、美術館のシンボルである。最初のネコは以前の冬宮のときに現れた。1745年、カザンからネズミを退治するためにネコが集められたのである。ネコはどんな毒薬よりもネズミの駆除に役立った。レニングラード封鎖のときには、多くのネコが死んでしまったが、そのときシベリア市民たちはエルミタージュにおよそ5000匹のネコを寄贈した。美術館のミハイル・ピオトロフスキーはネコの存在を積極的に支持しており、ネコはエルミタージュの「伝説」であり、美術館に「欠かせないものだ」としている。

 エルミタージュのネコについてより詳しくはこちらから。

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