イワン4 世は、苛烈な性格だけでなく、当時最大の蔵書家の一人としても知られていた。ゾイ・パレオロギナ(イワン3世の妃で、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪)がコンスタンティノープルから持参した書籍や、キエフ大公のヤロスラフ賢公が所有していた写本も含まれていたと考えられる。
そして、雷帝自身が常に蔵書を拡充していった。彼はとりわけ、ローマの著作家を好み、彼らの著書は、ツァーリのために翻訳された。
たとえば、ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』と『ユスティニアヌス法典』だ。雷帝はまた、トロイア戦争の歴史も愛していた。それについて語っている、ビザンツのヨハネス・マララスの『年代記』や『トロイアの建国と虜囚の物語』を愛読した。
トロイア戦争の叙事詩的な描写は雷帝に強烈な印象を与えたので、ロシアから逃亡した政治家アンドレイ・クルプスキーを名高い「往復書簡」のなかで、こう言って非難したほどだった(クルプスキーは、雷帝の親友、側近だったが、後に敵対した)――お前は、まるでアンテノールやアエネイスのように、自分に対して不誠実である、と。
皇帝ピョートル 1 世は、国家の利益に基づいて蔵書を集め、建築、建設、技術、軍事などに関する書物の翻訳を注文した。皇帝は、一部の出版社や書店をよく知っており、たとえば、オランダ人のジャック・ドゥボールの書店を訪れている。
そこで彼は、海運、園芸、交易史に関するものを含む 30 冊の書籍を入手した。ピョートルの蔵書には、あらゆる珍奇なものに対する彼の嗜好も反映されていた。たとえば、彼のコレクションには、人間の奇形から彗星の運行にいたる奇妙な現象に関するドイツ人著作家の本があった。また、デンマーク人、ティコ・ブラーエの詳細極まる占星術カレンダーもあり、それには、この学者自身の書き込みもなされていた。
「ここ数年、私は常に本を手に取る習慣を身につけている。都合の良い時が来るとすぐに、私は読み始めた」。こうエカチェリーナ2世は認めている。
彼女が本好きになったのは、子供の頃からで、ラシーヌとラ・フォンテーヌを見出したときのことだ。ピョートル大公(後の3世)と結婚するためにロシアにやって来たゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ・アンハルト=ツェルプスト公女は、読書を自分の必須の日課とした。そして、生涯を通じて、朝と晩の2時間ずつ、読書と執筆にあてた。
彼女の読書は玄人好みで、ラブレー、モンテーニュ、キケロも視野に入っていた。ディドロとダランベールの『百科全書』、モンテスキューの『法の精神』などを少しずつ精読していった。
当時の人々は、エカチェリーナ2世の博覧強記を賞賛している。女帝は、古代の哲学者たちの著作を難なく引用し、リュクルゴスとペリクレスの著作は暗記していた。
フランスの思想家たちは、彼女にとっては、表紙の名前以上の存在だった。彼女は、ジャン・ル・ロン・ダランベールに意を通じて、息子パーヴェル・ペトローヴィチ大公(後のパーヴェル1世)の教育者としてロシアに招いている。
ドゥニ・ディドロからは蔵書を買った。女帝はこの哲学者に1万5千リーブル(*リーブルは、フランスで1795年まで使われていた通貨)を支払い、彼を蔵書の管理人に任命して、50 年分の給料を直ちに前払いするよう命じた。この『百科全書』の編纂者が亡くなると、蔵書はロシアに移された。
女帝にとって主な発見はヴォルテールだった。彼女は彼の愛読者で、長年文通していた。彼が亡くなると、彼女は、このお気に入りの著作家の蔵書を手に入れた。そして、サンクトペテルブルク近郊の離宮ツァールスコエ・セローに、それ専用の城を築くことさえ計画したが、結局、自分の居室に蔵書を置いた。
「陛下は、ロシア文学全般が大のお気に入りだった。何についてお話ししても、すべてご存じで、何でも既にお読みになっていた」
アレクサンドル3世について、セルゲイ・シェレメーチェフ伯爵はこう語った。皇帝が愛読した作家はフョードル・ドストエフスキーで、彼の家族はみな、この作家がとても好きだった。父帝アレクサンドル 2 世も、アレクサンドル3世の弟たち――セルゲイ大公とパーヴェル大公――も、この作家から大きな感銘を受けていた。
皇太子時代のアレクサンドル3世がこの作家を知ったのは、長編『罪と罰』からだった。皇太子はこの作品を、妻マリア・フョードロヴナといっしょに読んだ。
ドストエフスキーは、皇太子の自分への関心を知って、新作『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』、『作家の日記』などを送るようになった。こうして、二人の間で文通が始まった。そのなかでドストエフスキーは、自身の小説の構想を明らかにし、ロシア的理念の重要性を強調した。
二人の会見は、アニチコフ宮殿で特別なセレモニーなしで行われた。作家は、宮廷の儀礼にこだわらず、ふだん通りに振舞った。その後、ドストエフスキーの死を知ったアレクサンドル3世は心から悲しみ、取り返しのつかない損失だと考えた。
「陛下にこう伝えてほしい。私は陛下の治世の長久を願っている。陛下のご子息のお幸せ、陛下のロシアの幸せを願っていると」。決闘で瀕死の重傷を負い、死にゆく詩人プーシキンは、友人の詩人ワシリー・ジュコフスキーに、この言葉をニコライ1世に伝えるように頼んだ(ジュコフスキーは、皇太子アレクサンドル、つまり将来のアレクサンドル2世の教育係でもあった)。
1826年、皇帝ニコライ1世は、「デカブリストの乱」の後、ミハイロフスコエ(*現在は、ロシア西端のプスコフ州に位置する)に流刑となっていた詩人を召喚して引見し、この青年貴族らの蜂起について尋ねた。別れの際、皇帝は、これからは自分が詩人の作品の最初の読者および検閲者となるだろう、と述べた。
実際、それ以来ニコライ1世は、この詩人の作品を精読していった。たとえば、彼は『ヌーリン伯爵』を「最高に魅力的な劇」と考え、史劇『ボリス・ゴドゥノフ』では、多くの箇所を削除したが、プーシキンはそれをオリジナルのまま掲載する許しを求めた。
ニコライは、長編『死せる魂』の作者も知っていた。作家ニコライ・ゴーゴリは、連作短編集『ディカーニカ近郷夜話』によって、つとに宮廷で知られており、やがて新作を皇室に送るようになる。皇帝はまた、戯曲『検察官』の上演を許可し、初演にも足を運んだ。その後で、大臣たちにも見に行くように命じている。
ニコラス 2 世も読書好きで、「貪るように」読んだ。彼はとくにニコライ・ゴーゴリが好きだった。ロシアのラストエンペラーの家族は時に、騒々しい娯楽よりも静かに読書することを好んだ。
そして、皇帝自身がしばしば、イワン・ツルゲーネフ、ニコライ・レスコフ、アントン・チェーホフなどの小説から一部を抜粋して、家族に朗読した。シャーロック・ホームズの冒険、アレクサンドル・デュマの魅力的な小説『三銃士』と『モンテ・クリスト伯』、そしてブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を読んだこともあった。
ロシア革命後、ニコライ 2 世は、フョードル・ウスペンスキーの『ビザンチン帝国の歴史』の研究に没頭し、死の直前にはエカテリンブルクで、『聖書』とニコライ・サルティコフ=シチェドリンの読書に時間を費やした。
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