ソ連と現代ロシアの人々にとって、冬の重要な祝祭といえば新年だ。しばしば大勢で賑やかに祝う。たくさんの食べ物、伝統的なマヨネーズサラダ、イクラのオープンサンド、ミカンにシャンパン、そして深夜の鐘が鳴る直前にテレビ中継される大統領の祝賀演説も欠かせない。その後は朝まで楽しく過ごし、外では爆竹や花火が打ち鳴らされる。ロシア人には、0時を過ぎるとすぐに(あるいはそもそも新年迎えずに)就寝する外国人のことが理解できない。
だが新年の夜中を祝う伝統が生まれたのは1930年代のことだ。ソビエト政権は第一に子供たちがプレゼントを受け取れる、子供たちのための祝いを作ることを決めた。またソ連には、装飾したツリーという、クリスマスの重要な要素も受け継がれた。しだいに大人も祝いに参加するようになり、真冬の盛大な祝日が習慣付いた。
革命までは、ロシアの正教徒はカトリック教徒と同じく12月25日を祝っていた。1918年にボリシェヴィキは従来のユリウス暦をグレゴリオ暦に切り替え、その結果クリスマスは13日移動した。今でもロシアのクリスマスは1月7日に祝われる。
クリスマスは昔から単なる夜の祭りではなかった。皆がこの日を待ち望んでいた。祝日前夜に「クリスマス週間」が始まり、祭りと仮装舞踏会が2週間延々と続いた。この伝統は古代スラヴのしきたりにルーツを持つ。
レフ・トルストイは『戦争と平和』でこの愉快な時期についてこう描いている。「盛装をした召使、熊、トルコ人、居酒屋の店主、上流夫人が、皆恐ろしく、おかしな姿で、冷気と陽気を携えて、初めは玄関で臆病に縮こまっていた。その後、互いの後ろに隠れながら、広間に押し寄せてきた。そして初めは遠慮がちに、それからどんどん愉快で友好的に、歌や踊り、輪舞、合唱、クリスマスのゲームが始まるのだった」。
クリスマス前には多くの街で慈善バザーが行われた。
何よりまず、すべての子供にプレゼントが行き渡るようにしなければならなかった。街の当局はしばしば貧しい子供や身寄りのない子供プレゼントを配った。
19世紀末から20世紀初めには、クリスマスのポストカードの郵送が流行った。人々は責任を持ってこれに取り組み、ポストカードに署名をして、事前に郵便局へ持ち込んだ。ポストカードの仕上げは有名な画家が担当した。この伝統はソビエト時代にも引き継がれた。
重要なイベントだったのが、クリスマスツリーの選定だ。良い木を見つけるため、貴族は召使いを森に送り、地位の低い人々は自分で小さなエゾマツの捜索に向かった。
だが街の住人はクリスマスツリーのバザーに行くことが多かった。その様子はどこか現代と似ていた。
ただし大きな良木を運ぶのは一苦労だった。御者や個人の馬車がなければどうしようもなかった。
ツリーは子供たちの目を避けてこっそり飾り付けられた。準備ができたら鈴を鳴らし、子供たちに素敵なクリスマスの作品を見せた。彼らはしばしば大いに感動するのだった。
レフ・トルストイは1870年にクリスマスについてこう綴っている。「クリスマスの日には豪華なツリーがあった。私とハンナと子供たちは予めクルミを金色に塗り、人形に服を着せ、糊付けして箱を作り、花を作った。ディヤコフ夫妻が、我々の大事な子供たちのために特別なセンスと愛を込めて選んだ綺麗な玩具をたくさん持ってきてくれた。昼間は皆でスケートをした。気分は非常に愉快で幸福だった」。
「昔からスヴェンチツキー家ではこの様式でクリスマスツリーを飾っていた。10時、子供たちが帰ると、若者と大人のために2本目の蝋燭を灯して朝まで楽しんだ。年配者はトランプに夢中だった。夜明けに皆で夕食をとった」とボリス・パステルナークは20世紀初めの貴族一家のクリスマスの様子を綴っている。
「幾筋かの光をまとって熱気を放つツリーのそばを、ドレスをさらさらと鳴らして足を踏み合いながら、踊らずに行き交って話す人々の黒い壁が動いていた。輪の中では人々が踊り狂っていた」とボリス・パステルナークは記す。
クリスマスのディナーの準備には大いに責任ある態度で臨んだ。現在と同じく、人々は祝日のかなり前から食材を選んで買っていた。クリスマスの晩まで厳格な斎戒が行われ、精進落としには肩肉や魚卵、いろいろな具のパイを食べることができた。
クリスマスの午餐会やもてなしはクリスマスが過ぎても新年まで続いた。
戦場でもクリスマスのことは忘れなかった。ロシア軍には常に連隊付き司祭がいた。第一次世界大戦中の1914年には、クリスマスの夜に戦闘が止んだ。当時はまだ正教徒もカトリック教徒と同じく12月25日にクリスマスを祝っていた。