レヴィタンはロシア帝国西部のキバルタという村(現在のリトアニア)の貧しいユダヤ人家庭に生まれた。レヴィタン一家は貧しい生活を送りながらも、子どもたちにはより良い教育を受けさせるための努力を惜しまず、イサークと兄をモスクワの美術学校で学ばせるため、モスクワに移り住んだ。イサークはそこで才能を開花させ、学業で大きな成功を収め、学費を免除されるほどであった。まもなく両親が亡くなり、レヴィタンは貧しいままの生活を送ることとなり、いつも空腹で、学校で寝泊まりしていた。
レヴィタンの教師の中には、かなり有名な画家たちがいたが、「ミヤマガラスの飛来」を始めとする叙情溢れる風景画で有名なアレクセイ・サヴラソフは、レヴィタンを高く評価していた。サヴラソフはレヴィタンを自身の風景画の授業を受けるよう招き、彼の初めての展覧会は、19世紀末のユダヤ人にとってはほとんどありえないほどの大成功を収めた(アレクサンドル2世の暗殺事件の後、多くのユダヤ人が首都から追放された)。しかしレヴィタンは美術学校を無事卒業、18歳からは画家として収入を得ることができるようになった。
作家のコンスタンチン・パウストフスキーは中篇小説「イサーク・レヴィタン」の中で、ロシアの自然を描くことに対するユダヤ人少年の才能は教師たちをイライラさせたと書いている。「彼らは、ユダヤ人がロシアの風景画などに手を出してはいけないと考えていたのである」。しかし、ロシアの風景画というジャンル自体、それほど人気ではなかった。当時、ほとんどの画家が手がけていたのは、街の風景画、宮殿の絵画、歴史的作品、聖書の挿絵などであった。
レヴィタンは素朴な草原、ぬかるみ、傾いた橋、小さな田舎の教会など、大きなキャンバスには似合わなそうなものばかりを愛した。彼の「力の源」となったのはヴォルガ川で、この川を題材にした壮大な風景画―とりわけ、プリョスとその数多くの教会を描いた作品を多く残している。
真に認められるようになったのは短い人生の終わりに差し掛かったころ。彼は37歳で帝立芸術アカデミーの会員になったが、39歳の若さで大動脈瘤のためモスクワで逝去した。ちょうどこのとき、パリ万博のロシア館でレヴィタンの展覧会が開かれていた。