ソ連時代に「本物の」モスクワを見ることができた外国人は多くない。普通のソビエト人民の実際の生活は観光客の目に見えないようになっていた。晴れの場ばかりに連れていかれ、ソ連の人々が入ることが許されない最高級ホテルに泊められた。彼らの行動がしっかり監視されていたことは言うまでもない。
プロパガンダの壁の向こうを覗き見ることができない者がいた一方、それができた者も、見たものが忘れられなかった。ソ連時代のモスクワを訪れた有名人たちはこんなことを話している。
英国のグラムロックのレジェンドは1973年4月30日、盛大な祝日の前日にモスクワを訪れた。彼が見たモスクワは一番の「晴れ姿」だった。「その夜私たちはホテル『イントゥリースト』に泊まった。翌日は運良く街路でメーデーのパレードを見ることができた。メーデーはロシア最大の祝日で、ソビエト連邦共産党の創立を記念して行われている」。
「党員全員が街路で行進し、赤旗を掲げ、愛国的な歌を歌っている。見ていて面白い。共通の目的を持って団結した大勢の人の姿は印象的だ」と彼は自身のPR担当者チェリー・ヴァニラに宛てた手紙で綴っている。
ドイツの哲学者は旅行者としてモスクワで1926年12月から1927年1月まで2ヶ月ほど過ごしたが、彼が一番驚いたのは冬の露店だった。
メアリー・ポピンズ・シリーズの著者パメラ・トラバースは、1930年代に団体旅行でモスクワを訪れたが、街のメインシンボルの一つがさっぱり理解できなかった。
ジャズ詩の父は映画の撮影に呼ばれて1930年代初頭にモスクワを訪れた。ヒューズは招待に歓喜し、その歓喜はどこにも消えなかった。ソビエト市民は彼の目にはパメラ・トラバースとは全く違って見えた。
「世界の大都市の中で、モスクワ市民は見知らぬ人に対して最も礼儀正しいように思う」と彼は自伝『終わりのない世界』(原題:“I Wonder as I Wander”)に綴っている。
「人々は礼節を示して道を譲ってくれた。混み合ったバスでは、十中八九誰かが立ち上がり、『ネグロチャンスキー・タヴァーリシ(黒人同志)、この席にお掛けなさい!』と言ってくれた」。
米国のノーベル賞作家スタインベックは報道写真の大家ロバート・キャパとともに戦後のモスクワを訪れた。目的はソビエト市民の生活をルポルタージュすることだった。1947年に彼はこう記している。
1957年、当時まだ駆け出しの記者だったラテンアメリカの作家は世界青年学生祭典に参加するためフォークロア・アンサンブルのメンバーのふりをしてモスクワにやって来た。
「モスクワは世界最大の村だ。人が馴染んだ比率に合致していない。緑がなく、街は萎れ、息苦しい」と後に彼は綴っている。「ここには普通の道がない。あるのは画一的な大通り網で、感傷的な地理的・政治的中心部、赤の広場に収束している」。
そしてこう記している。「階級がなくなったことは印象的なほど明らかだ。皆似たり寄ったりで、古く粗悪な服を着て酷い靴を履いている」。
ユーゴスラビアの学者・時事評論家は1964年夏の5週間モスクワで過ごし、翌年にはチトー政権に「友好国(ソ連)誹謗中傷罪」で逮捕された。
「『レーニン記念』地下鉄、『レーニン記念』中央図書館、そしてモスクワ『レーニン勲章』まで。サーカスだ! 人々が気付かないのは奇妙だ。あまりにも頻繁に繰り返されるものはあらゆる意味を失うのだ」と彼は書いている。
とはいえミハイロフがソ連に来たのは、最も酷い時期ではなかった。政治的な「雪解け」があり、このことは至る所で感じられた。
「通りに大きなタンクが並び、ロシアの伝統的な飲料であるクワスが注ぎ分けられている。至る所、炭酸水の自販機がある。清潔な炭酸水は1杯1コペイカで、エゾイチゴの果汁入りだと3コペイカだ」。
「メトロは記述できない。1分から1分半毎に電車がやって来て、問題なく運行している。あちこちに案内所がある。2コペイカで目的地へ行くためのバスやトロリーバスの番号、メトロの路線を知ることができる。シャンパンが量り売りされており、カウンターの脇で飲める」。
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