1. 自分の使命は教育活動にあると考えた
1861年にアレクサンドル2世により、既に空洞化して非効率に陥っていた農奴制が廃止されたが、多数の農民が窮乏し、離村して職業を変え、都市に流入して、その日の糧にも事欠くありさまとなった。トルストイは、農奴解放の前から農民と地主、ひいてはロシアの運命に心を痛め、1859年秋に、ヤースナヤ・ポリャーナにある自分の屋敷の翼屋に、女子を含む農民の児童のために学校を開いた。
作家は、ヨーロッパの教育を視察して研究し、自分自身の方法を練り上げた。彼は自分で教えた。子供たちに本を読んでやり、ロシアの歴史について、自然現象について話した。そして、彼が大事だと思うことだけを子供たちに教えた。
その後、彼は周辺の村にさらに約20校もの学校を開設し、トルストイの子供たち、大学卒業生(大学騒動で退学させられた者も)、作家の信奉者などが教壇に立った。
トルストイはまた、児童の創造性と想像力を伸ばしたが、彼らの好奇心と斬新なアイデアに感嘆している。
2. 既婚の農婦の愛人がいた
結婚前にトルストイは、花嫁ソフィアに日記を読ませた。妻との間には秘密があるべきでないと考えたのだが、彼女はその微に入り細を穿った恋愛の記録に打ちのめされた。トルストイは、生涯を通じて「リビドー」を恥じ、日記のなかで自分を解剖しては断罪した。
しかし、彼女が何よりも衝撃を受けたのは、農婦アクシーニャとの数年にわたる関係で、しかもアクシーニャは、この伯爵の子を産んでいた。
トルストイが農民の女性に抱いた情熱と「犯罪的な」愛への反省は、『コサック』、『悪魔』、『チーホンとマラーニヤ』など、いくつかの作品に痕跡を残している。
3. 当時の大作家の一人トゥルゲーネフと犬猿の仲だった
当時のロシアの文壇では、才能ある新進作家は、既に大家になっている有名作家が引き立ててやる慣わしだった。トルストイは、『幼年時代』(1852年)、『セヴァストーポリ三部作』(1855年)などを出しており、その才能のほどは明らかだったから、多くの人々、とくに当時を代表するロシア作家だったイワン・トゥルゲーネフから高く評価された。
しかし、トルストイはトゥルゲーネフの友好的な「指導」を受け入れなかっただけでなく、この新たな庇護者を公然と批判した。「西欧派」のリベラルな考え方は、トルストイには違和感があった。ジョルジュ・サンドの小説に登場する女性平等の観念についても同様だ。これは、西欧派がこぞって称賛していたのだが。
二人の争いには個人的な動機もあった。トゥルゲーネフは、農奴の女性に生ませた娘の「善行」を自慢したのだが、トルストイはそういう独善的で「罪深い」生き方は気に食わなかった。両作家は口論をし、トゥルゲーネフは「トルストイを引っぱたいてやる」と言い、トルストイは後に「トゥルゲーネフは卑劣漢で、ぶん殴ってやらなければいかん」と書いた。
二人が和解したのはようやく20年後のことだ。既に死の床にあったトゥルゲーネフはトルストイに、「君と同じ時代に生まれて嬉しい」と書き送った。
4. 貴族の反乱について書こうとしてそれが『戦争と平和』に
ナポレオンのフランス帝国との戦いに関する小説は、もともとトルストイの計画にはなかった。彼が常に興味を持っていたのはデカブリストだ。これは若い貴族たちで、1825年にサンクトペテルブルクで蜂起し、君主制の制限と農奴解放を要求して、首謀者は死刑、他の者はシベリア流刑となった。
1856年、新帝アレクサンドル2世は、デカブリストの恩赦を発表。トルストイはシベリア流刑から帰還した彼らに関する小説を書き始めた。しかし、彼は教育活動に集中したこともあり(①を参照)、ほんの数章しか書けなかった。後に、執筆に本腰を入れたとき、トルストイは貴族たちの自己犠牲の動機を深く探求し、彼らの人格と思想が形成された時代に遡っていった。こうして壮大な『戦争と平和』が誕生した。
5. 『聖書』の解釈でドストエフスキーを驚愕させる
トルストイは深く宗教的な人ではあったが、『聖書』を独自に解釈した。「神の言葉」の真理を信じることが肝要だと考えていたものの、キリストについて『新約聖書』に書かれたことをそのまま鵜呑みにすることはなかった。
「トルストイによれば、『キリストの教え』は、『山上の垂訓』に含まれる五つの戒めに集約される。これはモーゼによる『十戒』を発展または廃したもの」。ゾーリンはこう書いている。要するに、すべての人は平等であり、姦通やあらゆる暴力は禁じられているというのだ。
トルストイの見解は、ロシア文学を代表するもう一人の文豪、フョードル・ドストエフスキーの興味を引いた。ドストエフスキーは、トルストイの従姉妹に会ったとき、「あなたの従兄弟の意見を教えてください」と頼んだ。彼女は、トルストイからもらった手紙を読んで聞かせた。彼女が後に記しているところでは、ドストエフスキーは「自分の頭を引っつかみ、繰り返し叫んだ。『ちがう、ちがう!…』。ドストエフスキーはトルストイに同意しなかった」
6. 皇帝の暗殺犯の恩赦を訴えた
トルストイの思想の骨子の一つは、悪に対して暴力をもって抵抗するなかれ、ということだった。これは、皇帝アレクサンドル2世の暗殺をめぐる有名なエピソードにも現れている。1881年、2人のテロリストがサンクトペテルブルクでツァーリの乗った馬車に爆弾を投げつけ、彼は死亡した。
トルストイは、新帝アレクサンドル3世(アレクサンドル2世の息子)に手紙を書き、キリスト教の慈悲に則り、殺人者を赦すことを求めた(ただし、新帝に影響力をもつ反動政治家コンスタンチン・ポベドノスツェフがこの手紙を握りつぶした)。しかし当局は、こんな恩赦はテロの奨励に等しいと考え、この奇妙な作家に対してより慎重になり始めた。
7. 国勢調査に参加
「1882年1月、周囲の社会悪の根源をより深く理解し、それと戦う方法を見出そうと考えて、トルストイは国勢調査に参加した」。ゾーリンは書いている。作家は、モスクワ最悪の貧民窟、ヒートロフカで調査を行った。そこはまさにスラム街で、木賃宿がいくつもあり、酔っぱらい、犯罪者、娼婦などがたむろしていた。
トルストイは、ヒートロフカの人々といろいろ話し、物乞いに金を分け与えたが、彼らはすぐに賭博や酒でぜんぶ使ってしまった。
トルストイがこの場所で得た結論の一つはこういうことだった。乞食は、少額の施しなら有難がるが、あまり金額が大きいと、俺たちを「更生」させようと目論んでいるな、と彼らは勘繰るということだった。つまり、「自分たちがいったん拒否した世界のルールを、再び自分たちに押し付けようとしているんだな、と」