1. レフ・トルストイ(1828-1910)
ノーベル文学賞第1号が授与された1901年までに、トルストイは世界的な散文の巨人としての地位を確立していた。文学界で彼以上に権威のある者はそう多くなかった。にもかかわらず、ノーベル文学賞を初めて受賞したのはシュリ・プリュドム(皆さんはご存知だったろうか?)というフランスの詩人で、以後もノーベル賞選考委員会が『戦争と平和』の作者に文学賞を授与することはなかった。
2. マクシム・ゴーリキー(1868-1936)
ロシアの出身者が初めてノーベル文学賞を受賞したのは1933年で、それは亡命作家のイワン・ブーニンだった。彼は新しい共産主義政権を批判してずいぶん前に故郷を後にしていた。ノーベル賞をめぐってブーニンと競っていたのが、彼の旧友ゴーリキーだ(1920年代末から1930年代初めまで5度ノミネートされた)。ゴーリキーはボリシェヴィキ革命を受け入れていた。彼らが賞を獲得する確率は五分五分とされていた。
選考結果は、真のロシア文化は亡命者たちが担っており、ソ連にはない、という委員会の立場をはっきりと示すものだった。「ゴーリキーは(…)ブーニンの比較にならないほど大きい。大きく、人間味に溢れ、独創的で、必要とされている(…)。だが、これは政治なので、スウェーデン王が共産主義者のゴーリキーに賞を授けるわけにはいかない……」とアカデミー会員の決定についてマリーナ・ツヴェターエワは綴っている。新しい人類が世界に革命をもたらすと期待し讃美していたマクシム・ゴーリキーだが、これが最後のノミネートとなった。
3. ドミトリー・メレシュコフスキー(1865-1941)
メレシュコフスキーは、今日ではトルストイはもちろんゴーリキーよりもずっと知名度が低いが、かつてはエッセーや宗教・哲学小説(三部作『基督と反基督』)でヨーロッパ中にその名を轟かせており、ノーベル賞にも10度ノミネートされた。
ブーニンと同じく、メレシュコフスキーは十月革命後に亡命し、ロシアに「アンチキリストの帝国」が到来したと宣言してボリシェヴィキを批判していた。このように、作家は政治的には当時のノーベル賞受賞者の暗黙の基準に合格していたが、毎度彼より受賞に相応しい候補者が現れるのだった。
4. マルク・アルダーノフ(1886-1957)
現在では忘れられているが、亡命ロシア人の中でノミネート回数が多かった作家をもう一人。1919年にロシアを去った化学者・作家のマルク・アルダーノフ、本名マルク・ランダウは、なんと13度もノミネートされた。彼を保護したのはすでに出世していたノーベル賞受賞者ブーニンだった。彼は毎年のように、スウェーデンのアカデミー会員にロシア系移民の間でとても人気のあったアルダーノフの歴史小説や概説に注意を向けるよう勧めていた。
公開された資料(原則として、候補者の審査に関する情報が公開されるのは50年後)が示すように、選考委員会はアルダーノフの作品に何ら特別なものを見出さなかった。「アルダーノフはイワン・ブーニンと同水準のロシア系移民の作家に賞を授けるのに要求される資質を有していない」と委員会は結論付けている。アルダーノフは死の直前、自分は「葬式の3週間後」には忘れ去られるだろうと切ない予言をした。予言はほぼ的中した。
5. ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)
ロシア貴族のナボコフは、2言語を完璧に操り(正当にロシア人作家とも米国人作家とも見なされている)、17編の長編小説を世に出したが、ノーベル賞は受賞しなかった。あの最も有名な本が原因だった。
1963年、常任委員の一人であるアンデルス・エステルリングが、「不道徳で成功を収めた長編『ロリータ』の作者は、何があろうと賞の候補者と見なすことはできない」と宣言し、ナボコフの受賞を阻止したのだ。
ナボコフは翌年もノミネートされたが、ジャン=ボール・サルトルに敗れた。なおサルトルは、ロシア人といえば移民(ブーニン)や反体制派(パステルナーク)にしか賞を授けないノーベル賞選考委員会の中立性の欠如を批判し、受賞を辞退している。どうやら選考委員会はフランス人哲学者の批判を聞き入れたらしい。1965年にノーベル文学賞を受賞したのは共産主義者のショーロホフだった。結局ナボコフに賞が授けられることはなかった。
6. アンナ・アフマートワ(1889-1966)
1965年、スウェーデン王立アカデミーは、ソ連出身の2人の作家、ショーロホフとアンナ・アフマートワに同時に賞を与えることを検討していた。これを阻止したのもスラヴィストのアンデルス・エステルリングだった。曰く、「アンナ・アフマートワとミハイル・ショーロホフに賞を授けるとすれば、それは彼らが同じ言語で書いているからだ。それ以外に彼らに共通点はない」。
実際、運命も作品も異なっていた。コサックの叙事詩『静かなドン』の作者ショーロホフがソビエト政権に贔屓された一方、鋭い叙情詩を特徴とするアフマートワは迫害や弾圧に耐えた。ちなみに、エステルリングはアフマートワの作品を高く評価しており、彼女は次の年に単独でノーベル賞受賞者になれるだろうと考えていた。だが翌年、詩人は世を去った。