18~19世紀の外国人画家はモスクワをどう描いたか?

カルチャー
アルメン・アプレシャン
 コルネリス・デブルーイン、ジェラール・デラバルト、アウグステ・ジャン・バティスト・アントワーヌ・カドル…。ここに紹介するヨーロッパの画家たちの名は、今ではロシアでも世界でもほとんど知られていない。しかしほかならぬ彼らの作品のおかげで、往時のモスクワの様々な顔を我々は目にすることができる。

 18129月、ナポレオンの「大陸軍」はモスクワを占領した。街の大部分は、数日間燃え盛った大火により灰燼に帰した。「大火前」のモスクワを描いた絵画はほとんどない。風景画は、18世紀末から19世紀初めにかけては、あまり一般的ではなかったから。だから、当時ロシアにいた欧州の画家たちの作品は、貴重な資料となっている。

コルネリス・デブルーイン(Cornelis de Bruijn

 そうした画家の一人がコルネリス・デブルーイン(16521727だ。オランダの旅行家、作家、画家で、ロシア帝国に18世紀初めに滞在した。ピョートル大帝(1世)の宮廷に招かれ、当時のロシアの生活に関して貴重な証言を残している。

  オランダに帰国した後に出版された本の中で、デブルーインは、街の区画と建築の外観について詳細に記している。そしてとくに、彼を住宅の販売の仕方に注目した。それは彼には驚くべきものと思われた。

 「家々は、すっかりできあがっているものも売られていたし、家の区画も個々の部屋も売られていた。これらの家屋は、丸太または木の幹が組み合わされ、継ぎ合わされてできているため、解体してバラバラにして運んだ後で、ごく短時間で再び組み立てることができる」

 家屋のほかにもデブルーインは、モスクワっ子の祭日、習慣、衣服、食事などについて書いている。彼がとくに注目したのはキャベツとキュウリだ。モスクワではキャベツとキュウリを、他国でリンゴやナシを食べるように普通に食している、とこのオランダ人は記している。

 ツァーリの命令によって、画家はロシアの皇女の肖像画を何点か描いている。しかし最も重要なのは、彼がモスクワなどロシア各地で様々な興味深い建物をスケッチする機会を得た最初の外国人になったことだ。

 さらに彼は、モスクワの巨大でユニークなパノラマ(196 x 32 cm)を制作した。これは、雀が丘からモスクワを一望したものだ。だから事実上、有名な「スターリン・ゴシック」の一つであるモスクワ大学本館からの眺望と重なる。

ジェラール・デラバルト(Gérard de la Barthe  

 ジェラール・デラバルト(17301810)は、18世紀末にロシアで活動した画家だが、デブルーインより知られていない。

 彼について知られているのは1730年にルーアンで生まれ、パリで教育を受けて、1780年代末にロシアにやって来たこと。そしてロシアでモスクワとサンクトペテルブルクの一連の風景画を描いたことだ。これは単に街角の風景を描写したといったものではない。このジャンルの本格的な作品となっている。

 彼がモスクワで描いた最初期の風景画を見てみよう。

 この砂浜の川岸と傾いだ木造家屋が、クレムリンから数百メートルのところにあるとは想像できない。ここは現在、救世主キリスト大聖堂がある場所だ。骨に飛びつく犬、物乞い、散策する貴族、庶民、荷役労働者…。これらが都市生活の多様な側面を示している。

 興味深いディテールがある。クレムリンの塔と城壁は、赤レンガで造られているのに、彼の多数の作品では、白く描かれている。これは、かの名高いモスクワの要塞が、数百年間にわたり定期的に白塗りされていた証拠の一つだ。

アウグステ・ジャン・バティスト・アントワーヌ・カドル(Auguste Jean Baptiste Antoine Cadolle

 もう一人のフランス人画家、アウグステ・ジャン・バティスト・アントワーヌ・カドルの生涯は、アドベンチャー映画の題材になりそうだ。

 彼は、あまり富裕でないパリのプチブルの息子で、画家になることを夢見て、有名な風景画家ジャン・ヴィクトル・ベルタン( Jean-Victor Bertin)のアトリエで学んだことさえある。しかし、1812年に彼は、ナポレオンの大陸軍に入る。もっとも、彼の軍歴は短く、1813年にロシア軍の捕虜となる。が、要領の良い性格のおかげで、たちまちロシア語を習得し、1年後にはフランスに戻った。

 ナポレオン戦争後の1819年、国王ルイ18世の命令により、彼はロシアに赴く。絵画を修業し、大火の後で復興したモスクワを描くためだ。実際のところ、この青年はフランスの隠密となったのである。

 彼の最も興味深く象徴的な作品の一つは、モスクワっ子が散歩するトヴェルスコイ並木道を描いたものだ。ナポレオンがモスクワに入城した1812年秋、フランス兵士が宿営したのがここである。設営後、ほとんどすべての菩提樹が伐採され、焚火の薪となった。焚火には、食物を煮炊きする大釜が据えられ、湯気を立てていた。またここで、フランス兵は、住民から略奪した財産を種分けした。