同時代人らの回想によれば、若きウラジーミル・ヴェイスベルクはちょっと神経質な若者で、毎週木曜日にモスクワのあちこちの画廊の床を軋ませていた。彼は大学に入れなかったため、絵画はあちこちで習っていたのだが、実際には彼が崇拝していたセザンヌと同じく――独学だった。さまざまスタイルを試み、他人の作品にインスピレーションを得て自分のスタイルを確立し、ソヴィエトの「非公式芸術」のもっとも有名な画家の一人となった。
精神科からイーゼルへ
ヴェイスベルクの青春時代は大荒れだった:スペイン内戦が真っ盛りのときに、彼はソ連からスペインへ行こうとした。しかし、船に乗り込もうとしたオデッサの港で捕まってしまい、そのままモスクワの精神病院に送られてしまった。
第二次世界大戦の前線にも行こうとした。しかし、友人のワレンチン・ヴォロビヨフが記しているように、「心のバランスを喪失している若者は戦争には不適合とされて、対戦車用塹壕の掘削作業に送られた」。そこでもヴェイスベルクはまたもや運が悪かった――爆撃の際に打撲傷を負い、精神状態も悪化して、再び病院行きとなったのだ。
1942年に、「やせ衰えて鬱状態の」(これもヴォロビヨフの言葉)若者は、絵画講座に申し込んだ。戦時中も講座は続いていて、「寒さでかじかんだあらゆる年齢層の狂信的な10人の人たちが[…]石膏の球や立体、円錐や花型の器に陰影をつけていた」。
自分の道の探究
戦後、ヴェイスベルクはスリコフ芸術大学に入学しようとしたのだが入れなかった。その後は、何年もの間、モスクワの非公式芸術のアトリエをさすらうこととなった。彼は自分でテクニックを学び、自分の作品に批判的に接した。
眩暈がするほど何時間もコンポジションに取り組んむこともあった――コンポジションは彼にとってたいへん大きな意味をもっており、文字通り、1ミリ1ミリが重要だった。だがあるとき分かった。
色は彼には邪魔だ、色は彼にとって“生理的嫌悪感を催させるものになった”と。いくつかの作品で彼は色を用いることをやめ、そうしてあの十八番の「白の上の白」が生まれたのだ――余計なものは一切なく、ただ霞んだ影と空間だけがまさっている。
残念ながら、ヴェイスベルクの一部の作品では色が不可欠だった。「私の中に真実の感覚があって、色を使わないわけにはいかない。このこととずっと闘っていた」――と彼は、芸術学者のクセニヤ・ムラトワとの対談で話したことがある。
批評家や専門家たちは、1963年に第一作目の『白の上の白』に対し不遜な悪評を下した。ヴェイスベルクが白をイタリアのモランディから剽窃したと言うのだ。
しかし、ヴェイスベルクはおそらく、モランディの作品を一度も見たことがなかった。新しい、“白の”ヴェイスベルクを見るために、“モスクワじゅう”が駆けつけたと、ヴォロビヨフは書いている。
世界的名声の獲得
幸福なコルホーズ員や粗野で男らしい労働者が登場する社会主義リアリズムのスタイルでは一度も描いたことのない“非公式”芸術の巨匠でありながら、ヴェイスベルクは、1960年代末頃、それでもソ連芸術家同盟の会員となった――その身分証があれば国家からの注文を受けてなんとか生きていけるからだ。
さらに、アカデミックな芸術教育を受けてはいなかったが、風景画の描き方を教えるようにもなった。独学の画家の初の個展が開かれたのは、生まれた街モスクワではなく…パリだった。
しかし、ヴェイスベルク自身は凱旋に出ることができなかった。1984年のことだったが、外国への出国は相も変わらず大きな困難が伴うもので、KGBとやりとりしなければならなかった。ヴォロビヨフが記しているように、巨匠は当局側の挑発を恐れていたのだ。
ソ連で初の個展が開催されたのは、1988年になってからのこと。画家は自分の個展をもはや見ることはできなかった。彼が亡くなった日――彼は1985年1月1日に亡くなった――モスクワには、深く白い雪が舞い降りた。