現代のフェミニストはペチョーリンが嫌い?:名作『現代の英雄』のニヒルな主人公

Alexander Kott/Central Partnership, 2006
 この19世紀ロシア文学のキャラクターは、書かれた当時も受けが良くなくて、ツァーリ、ニコライ1世は彼を「卑劣な男」とみなした。今日の読者にとっては、さらに「嫌なやつ」になっているようだ。

 詩人ミハイル・レールモントフ(1814~1841)の傑作小説『現代の英雄』(1840)は、ロシア文学史上最も重要でかつ影響力をもった小説の一つだ。構成は複雑だが、主に5つの部分からなり、それぞれが主人公グリゴリー・ペチョーリンをめぐって展開していく。

 ペチョーリンは、エフゲニー・オネーギン(詩人アレクサンドル・プーシキンの同名の韻文小説の主人公)やバイロンの系譜に連なるキャラクターだとみられることが多い。しかし彼は、世界文学を見渡しても、最も多義的で矛盾した人物像に属するだろう。彼は嘘をつき、人を欺き、自分が望むものを得るためにさまざまな策略をめぐらすが、本当に自分がそれを望んでいるのか、結局のところ確信がもてない。

 女たちはたいてい、ペチョーリンの策略の犠牲者である。あるいは、仕留められるべき獲物にすぎない。それも彼が心から欲しているわけではなく、なかば嘲笑の対象となっている。彼は自然体で女性を蔑視している。

 「同情という、女なら誰しもいとも簡単に征服されてしまう感情」

 「女心より矛盾したものはない」

 「女が愛するのは、彼女が知らない男だけだ」

 公爵令嬢メリーを初めて見たとき、彼は彼女の外見についてのみしゃべる。なるほど、確かに彼は、いわゆる啓蒙された現代人ではない。しかし現代の読者は、公爵令嬢メリーに対する彼の実際の行動をどう思うのだろうか?今や我々はそれを醜悪な行為と決めつけるのだろうか?

女心をかき乱す

 「公爵令嬢メリー」の章でペチョーリンは、パッとしない鉱泉の街(ピャチゴルスク)で屈託し、心がざわざわしている。気晴らしの方便として彼は、公爵令嬢メリーをものにしようと、追い回し始める。しかしここで彼がとった作戦の一つは、「否定(negging)」として知られているものだ。つまり、男はわざと女に否定的なこと、嫌がるようなことを言う。すると、女はそれに抗弁、弁解したい気持ちが強まるという仕組みだ。

 さて、公爵令嬢メリーが夜会で歌声を披露したとき、他の者たちがこぞって褒め称えているのを見て、ペチョーリンはわざと、「彼女の声について、関心のなさそうなこと」を言う。

 これを聞いたメリーは「顔をしかめ」、それから「皮肉っぽく」彼にお辞儀をする。ところがペチョーリンはさらにその先を行く。あなたの歌は、自分を眠らせてくれるので気に入った、と言い放つのだ。

 このエピソードは、ペチョーリンが彼女に、自分はあなたに魅了されたと告げた後に起こる。彼は意識的に彼女の心を動揺させようとしている。

 イギリスのフェミニズムの論客、ジャクリーン・ローズはこう述べている。「この嫌がらせ(ハラスメント)の目的は…女性の身体を支配するだけでなく、心に侵入すること。…だからそれは、もっと邪悪でパセティックな強制をはらんでいる。すなわち、『お前は私のことを考えることになる』という」

 もっとも、これだけの話なら、さほど「邪悪な」ものではなかったかもしれない。メリーはペチョーリンに心をかき乱され、ぐっと引きつけられる。恋愛ごっこのように見えるが、ペチョーリンはさらに先へ行く。

 夜会での心理ゲームの後、彼はメリーと二人きりになる機会を捉え、「私はすばやく彼女の小さな手に自分の唇を押し付けた」

 しかしこれは、その瞬間の突発的な行為ではなかった。これに先立って、「おれは今夜必ず彼女の手にキスしてやると自分に誓った」からだ。

 だからこれは、メリーの体への計画的な「侵入」だ。彼女の肉体の無力感、無抵抗が微妙に表現されていることに注意されたい。「彼女の小さな手」と。

体に触れるチャンスを待つ

 これに続くメリーとの交渉のなかで、ペチョーリンの行動はエスカレートしていく。二人は駒を並べながら山の中に夕日を眺めに行く。他の仲間から離れて、川の流れを横切ると、彼女はぼーっとして、馬上で気が遠くなりかかる。ペチョーリンは、彼女の腰を抱いて支え、彼女を落ち着かせる。

 「彼女はおれの腕から逃れようとしたが、おれは彼女の優美で柔軟な身体をぐっと抱き寄せた」。彼は彼女にキスし、彼女は震える。

 ペチョーリンは賢いから、何も起きていないときには、いきなり自分の力を振るおうとはしない。彼は、メリーに力を誇示し、「ものになりそうな」機会をうまく捉える。

今日この本を読む理由は?

 1840年にこの小説が出版されたときは、ペチョーリンは猜疑の目で見られた。ツァーリ、ニコライ1世は彼を「卑劣な男」と呼んだ。しかし、今日の読者にとっては、上のような場面はもろに嫌悪すべきものかもしれない。それは、現代の読書体験にどんな影を落とすのだろうか?ペチョーリンのこの日記(「公爵令嬢メリー」)は、セクシャルハラスメントそのもので、女性はそのなすがままになっているようだが、こういう作品を読むことにどんな意味があるか?…こう考える者がいても不思議はない。

 だがレールモントフの作品は一筋縄でいかない多義性をもっており、それが彼の読書体験を豊かで複雑なものとする。我々がそこに読むのは、偉ぶった男の自慢話だけではない。

 といって私は別にペチョーリンを弁護しようというつもりはない。作者レールモントフはペチョーリンの意識下の矛盾に微妙に注意を向けている。

 ペチョーリンは、友人グルシニツキーがまるで小説のヒーローになりたいかのように「役を演じている」ことを批判するが、そう言う彼自身も内心忸怩たるものがある。彼は自分の人生を文学的な言葉で表現する。「おれは、第5幕に必要な登場人物だ」

 文芸批評家ジェームズ・ウッドは、「彼はロマン主義の真のパロディーである」と書いている。ペチョーリンは、バイロン的理想にとらえられているが、絶えずそれを打ち消し、そこから逸脱しようとする。彼は、人々の思惑など気にしないと言いながら、彼らの考えをコントロールしようとする試みに時間を費やす。レールモントフは、こういう弱く憂鬱な男の矛盾と不安に目を向けるように、我々読者を促す。

 アメリカの哲学者ジュディス・バトラーはこう書いている。男っぽさの誇示、パフォーマンスは、常にメランコリックなものである。なぜなら、その演技者は、自分が演じている役柄が、あたかも仮面のように、「皮膚の深さしかない」、つまり表層的であることを知っているから。

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