冷血な司祭が自殺した娘や麻痺した妻に話しかけ、彼らの沈黙ののちに少し正気を失うところを想像してほしい。あるいは若い男女が散歩中に襲われ、浮浪者らが女をレイプしたのち、今度は連れの男が同じことをするところを。残酷すぎる? これがアンドレーエフの短編の世界だ。
現代作家のドミトリー・ブィコフ氏は、ある講演でアンドレーエフについて「彼は専ら人生の恐ろしくおぞましい面に集中していた」と指摘している。ブィコフ氏はアンドレーエフを「ロシアのスティーヴン・キング」と呼ぶ。作家はほぼ100年前に亡くなったが、本当に人を怯えさせる達人だった。
カメラのレンズを通して
とはいえ作品の外では、アンドレーエフは家族を愛し自然を慈しむ好人物だった。このことは彼が撮影した写真からも窺い知れる。作家は若い頃アーティストでもあり、カメラの扱いに大変長けていた。彼は絵のように美しい写真を何十枚も残している。その何枚かをご覧に入れよう。
アンドレーエフは20世紀初頭のヨーロッパ一般的だったオートクローム・リュミエール技法で撮影した。これはマルセイユで1910年に撮られた彼の2人目の妻の写真だ。
そしてこれはレオニード・アンドレーエフ自身だ。きっとまた新たな恐怖の物語のことでも考えていたのだろう。
アンドレーエフの次男ダニール(1912年撮影)。アンドレーエフの最初の妻アレクサンドラはダニールを出産した後の熱が原因で亡くなったため、作家と息子の関係は複雑だった。だが、ダニール自身ものちに作家かつ哲学者となった。
アンドレーエフ(髭を剃っている)と友人のフィリップ・ドブロフ、そしてダニール。1912年、ヴァンメルスー(現サンクトペテルブルグ、セロヴォ地区)にて。
田舎暮らしを好んだアンドレーエフは、神経の擦り減る生活から逃れて多くの時間を田舎で過ごした。
アンドレーエフは家族を大切にした。愛というものは、たいてい死や恐怖と結びついているが、彼の作品全体に一貫して内在している。彼は日記に「空気や食事、あるいは睡眠と同様に、愛は私という人間存在にとって不可欠だ」と記している。
作家は哲学も愛した。彼の友人であった作家のマクシム・ゴーリキーの回想によれば、ある時、彼らは神について19時間話し、サモワール3台分の紅茶を飲んだという。ご存知、ロシアの作家たちだ。
アンドレーエフは1917年のボリシェヴィキ革命を受け入れず、ロシアを去った。しかしそう遠くへは行かず、サンクトペテルブルグから近いフィンランドに落ち着いた。
アンドレーエフと三男サヴァ。彼には5人の子供がいた。
彼は1919年に心臓病のため48歳で亡くなった。フィンランドに埋葬されたが、「ロシアのスティーヴン・キング」は1950年代にサンクトペテルブルグに移葬された。常に不安に駆られていた彼の心も、とうとう平静を得たことだろう。