今年は、20世紀の最も重要な作家にして革命を予告した「海燕」、マクシム・ゴーリキー(1868~1936)の生誕150年を迎える。現代ロシアの作家・文芸評論家パーヴェル・バシンスキーは、トルストイやゴーリキーの優れた評伝で知られるが、このほど新著『マクシム受難:ゴーリキー:死後九日間』が3月に出た(AST出版)。両文豪の複雑な関係を描き出したもので、ロシア・ビヨンドは、その抜粋の翻訳をお届けする。 以下が抜粋だ。
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トルストイの日記における、ゴーリキーに関する最初の言及は好意的なものだった。「良い会話ができた」、「民衆から出てきた本物の人間だ」、「ゴーリキーとチェーホフが気持ちの良い人間で嬉しい。とくに前者がそうであることが」
ところが、1903年の半ばごろから、トルストイのゴーリキーへの態度は急変する。気難しく難癖をつけているような感じさえ出てくる。
「ゴーリキーは不可解な人間だ」。トルストイは1903年9月3日にこう記した後、苛立たし気に付け加えている。「ドイツ人たちはゴーリキーのことは知っているのに、ポレンツのことは知らない」
しかし、ヴィルヘルム・フォン・ポレンツ(1861~1903)は、有名な自然主義派のドイツ人作家ではあったが、ゴーリキーと同日の談ではなかった。ゴーリキーは、1903年までには戯曲『どん底』でその名が知れ渡っていた。
1903年1月10日、ベルリンでこの戯曲の初演が、マックス・ラインハルトの劇場Kleines Theaterで、『木賃宿』の題名で行われる。演出は有名な演出家、リヒャルト・ヴァレンティンによってなされ、彼はサーチンの役も演じた。ルカはラインハルト自らが演じた。ドイツ版『どん底』の成功は圧倒的で、300回(!)続けざまに上演され、1905年春には、ベルリンにおける500回上演を祝った。
レフ・トルストイともあろう者がゴーリキーの成功を羨んだなどと勘ぐるのは馬鹿げているし、滑稽でもあろうが、作家としての嫉視は、日記の記述からうかがわれなくはないのである。「ゴーリキーは不可解なやつだ」と言いながら、彼がドイツ人のことを思い出しているのは偶然ではあるまい。戯曲『どん底』がロシアのみならずドイツでも圧倒的成功をおさめたことは、もう彼の耳にも入っていた。
トルストイが『どん底』に初めて接したのは、まだそれが草稿だった段階だ。ゴーリキーはクリミアに病後を養っている文豪を訪ね、自ら朗読して聞かせたのだった。
しかしこの時すでに文豪は、いったい何のためにこんなものを書いたのか?といぶかっている。だから、もしこの戯曲がこれほど成功しなかったとしたら、トルストイは単に、この若い作家は創作のうえで誤った選択をしたと考えて済ませたに違いない。だいたい彼はそれ以前にも、ゴーリキーの描く百姓や元農奴の男たちは「あまりにも賢し気に」しゃべるとか、彼の散文の多くの要素が誇張され不自然であるとかいって非難しているからだ。
1906年4月25日のトルストイの日記を読むと、いよいよ彼が「嫉妬」している疑いは濃くなる。この時期ゴーリキーは、結婚した身でありながら(別居していたが)、女優マリア・アンドレーエワをともなって訪米し、スキャンダルになった。にもかかわらず、アメリカの作家たちに会ったり、インタビューに応じたりし、これらすべてが米国だけでなくロシアのマスコミによっても報道された。「ゴーリキーがアメリカで歓迎された記事を読む。忌々しく思っている自分に気づく」とトルストイは書いている。
1909年12月24、25日の日記にはこうある。
「ゴーリキーを読んだ。帯に短し襷に長し」。このときトルストイが何を読んだのかというと、戯曲『町人たち』だ。しかし、何でこんなに遅く?このゴーリキーの戯曲が書かれたのは『どん底』より前のことなのだが。
25日にはこう記している。「昨晩『町人』を読んだ。取るに足らない」
同年11月9、10日にはこんなことも書いている。
「自宅で夜、ゴーリキーを読了。すべてが空想された、不自然な、誇張されたヒロイズムだ。そして虚偽」
またも「虚偽」か!もっともトルストイはこう付け加えている。「だが才能はすごくある」。
才能がすごくあるのに、取るに足らず、虚偽であるとはどういうことか?
こんなことを書いているくせに、偉大なるトルストイ翁の「虚偽」の作家への関心は弱まることはない。同年、すなわち1909年11月 23日の日記にはこんな叙述がある。
「昼食後ゴーリキーを読んだ。奇妙なことだが、彼に対して良からぬ感情が湧いてきて、それと戦っている。私は、彼はニーチェのような有害な作家である、などと考えて自己弁護している。才能には恵まれているが、いかなる宗教的信条もない。つまり、人生の意義を理解する信念がまったく欠けていると考えて。その一方で彼には確信はある。そしてそれは、我らの『教養ある人々』に支持されている。それというのも、彼らはゴーリキーのなかに自分の代弁者を見出しているからだ。そのため、彼の確信がそのインテリたちに伝染して、いよいよ毒することになる…。例えば、ゴーリキーのこんな“金言”だ。曰く、神を信じれば神はある。神を信じなければ神はない。忌まわしい金言だが、それは私を考え込ませた…。いったい私がしゃべったり書いたりしている神は、それ自体として存在するのか?そして、実際の話、神についていったい何が言えるのだろうか?神を信じれば神はある。私自身も常にそう考えてきたではないか(*例えば『懺悔』――編集部注)。だからこそ、キリストの言葉の一部は余計なように私には思われるのだ。『神と隣人を愛せよ』。この『神への愛』というのが余計で、『隣人への愛』とうまく結びつかないように思える。なぜ結びつかないかといえば、隣人への愛というのははっきりしており、その意味は明晰そのものだが、逆に神への愛はどうもはっきりしない。なるほど、神が存在する、神がそれ自体として在る、と認めることはともかく、神を愛するとは?…ここで私は、しばしば経験してきたものにぶつかることになるのだ。つまり、福音書に書いてあることなら何でも盲目的に認めさせようという意思だ。
神は愛である。これは然りだ。なぜなら、我々はお互いに愛し合っているときにのみ神を認めるから。だが、神はそれ自体として存在する、となるとどうだろう?これは判断、推理であって、こういう判断はしばしば余計であり、有害だ。もし私が、神とはそれ自体として在るものか、と聞かれたら?私はこう答えねばなるまい。たぶん存在するのだろうと。だが、その神そのものが何であるか、その内部に何があるかとなると、私には皆目分からない。だが、愛としての神なら話は別だ。それならたぶん私は分かる。それは私にとってすべてであるし、私の生の意味を説明してくれるものであり、生の目的でもある」
事実上、ゴーリキーは、『どん底』のルカのセリフにより、トルストイの宗教観を動揺させたことになる。もし神というものが信じる者のなかにしかなく、それ自体のなかにはないとすれば、要するに神は実在しないのだ、と。ここでトルストイは思いもかけず、ゴーリキーの『幼年時代』に出てくるおばあさんの、愛についての考えを先取りすることになった。「神なんて誰も知らないよ。でも人間は愛さなくちゃね」
偉大なる獅子(レフ)の怒りは止まない。以下は、彼の生涯最後の年、すなわち1910年1月12日の日記だ。
「昼食後サーシャ(四女アレクサンドラ)のところへ行く。彼女は病気だ。読書してなかったら、何か気持ちの良いことでも書いてやろうかと思って。彼女のところからゴーリキーの本を持ってきて読んだ。実にひどい。だが肝心なのは、彼の虚偽の評価が私には不快であるということで(*誰の何に対する『虚偽の評価』かこの文脈では不明――編集部注)、これは良くないことだ。彼のなかに良いことのみを見るようにしなければならない」
トルストイのゴーリキーに関するこれらすべての苛立たし気な発言の背後には、じっと目を凝らしているような、片寄り気味な態度、そして嫉妬さえ看取せざるを得ない。トルストイは理解していた。ゴーリキーが新世代の若者の気分を代弁していること、そしてだからこそ、インテリたちの目がゴーリキーという人物に釘付けになっていることを。むろんトルストイは、ゴーリキーが「民衆の声」であるなどとは考えなかったが。
だが、まさにそのゴーリキーが、新時代をしたがえて進んでおり、それは新たな倫理と文化をともなっていた。その意味でゴーリキーは挑戦状を突きつけていたのだが、トルストイはそれにどう応えるべきか分からなかった。
このようなわけで、ゴーリキーは短期間、トルストイにとっての試練であった。とくに『どん底』の狡猾な老人、ルカの人物像は。その神に関する言葉はトルストイの信仰を動揺させたからだ。
だが、トルストイの人生においてゴーリキーが所詮は一挿話に過ぎなかったとすれば、ゴーリキーにとってトルストイは、おそらく最も強い影響を与えた人物であったろう。トルストイにゴーリキーはいわば「試験官」を見た。それは、料理人のスムールイともロマシとも到底比べられない(*自伝的な小説、『人々の中で』、『私の大学』の登場人物――編集部注)。ゴーリキーの精神史のなかで唯一トルストイに比肩し得るのは、祖母アクリーナ・イワーノヴナのみ。トルストイ死去の報をゴーリキーは、祖母の時と同じく痛切に受け取った。
「レフ・トルストイが死んだ。
電報を受け取った。そこにはありふれた言葉で書いてある。亡くなった、と。これは私の心臓を打ちのめし、私は憤りと寂しさで泣きわめいた。今でも半狂乱の状態だ。彼を知り見ていたときのその姿で思い浮かべる。彼のことを話したくて居ても立っても居られない。
祖母が亡くなったときは、アリョーシャ・ペシコフ(*ゴーリキーの本名――編集部注)は、泣きはしなかった。だが彼は、『凍てついた風に包まれたかのようだった』。今もまた、祖母の死の時と同様に、彼には話す相手がいない。この最も大切な死者以外には」