収容所にいた歴史家レフ・グミリョフの10の事実

カルチャー
アレクセイ・ティモフェイチェフ
 スターリン時代、収容所で何年も過ごしたレフ・グミリョフは、両親が有名な詩人だったために逮捕されたと言っていた。収容所の過酷な経験があっても、両親に劣らぬ才能を活かし、有名かつ貴重な研究者になった。

 レフ・グミリョフは、ロシアの優れた詩人ニコライ・グミリョフとアンナ・アフマトワの息子。ニコライは貴族で、20世紀初頭の最も有名なロシア人詩人の一人であった。革命後のロシアでレフが9歳になった1921年、ニコライは君主制主義者の反革命的陰謀に参加した容疑で逮捕され、すぐに死刑判決を受け、処刑された。これにより、妻アンナ・アフマトワとレフはソ連で汚名を着せられた。

 アンナ・アフマトワとレフの関係は難しかった。レフは小さい頃、祖母に面倒を見てもらっていた。それでもレフは、高校を卒業すると、レニングラードに来て、母とその新しい夫と暮らし始めた。

 レフはレニングラード大学で歴史を学んだ。同級生によれば、他の人と交わることに消極的で、孤高の人だったという。1935年、初めて拘束される。レフは「ロシアには依然として爆弾を夢見ている貴族がいる」と言っていたとして、反乱的な感情について問い詰められた。

 警察はまた、レフが書き写したオシプ・マンデリシュタームの「クレムリンの登山家たち」の詩を発見した。ここには、「ゴキブリのヒゲが叫んでいる」、「彼のための殺人それぞれが喜び」という言葉があった。これはソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンを示唆していた。

 アンナの夫も拘束され、アンナはスターリンに解放するよう求めた。その結果、2人は解放された。

 レフは1938年に再び拘束された。若者の間で反革命的な団体を組織した容疑で。父親がソ連政府の敵であることも指摘された。裁判で、レフは罪状認否し、アンナもスターリンに手紙を書いたが、この時は受け入れられなかった。そしてシベリア東部の労働収容所に5年服役することを宣告された。

 服役後の第二次世界大戦末期の1944年、赤軍に加わり、ベルリンの戦いに参加して活躍した。

 戦後、歴史学の卒業証書を取得し、古代トルコ人の歴史に関する博士論文の試験に合格。だが1949年に再び拘束された。これはソ連政府が母親を公然と批判したできごとと重なったが、母親は逮捕されなかった。

 レフは、父、次に母が原因で逮捕されたと言っていた。2回目に逮捕された時は、10年の服役を言い渡された。これが最も困難な時期となった。40歳になっていたレフには、次々に襲ってくる健康問題があった。判決後、10年の服役を終えることなく死ぬであろうと書いた。だが収容所図書館で図書館員として働き、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフが脱スターリン主義運動を始めた後の1956年、解放された。

 解放後、レフと母親の関係はとても緊張した。母親があまり自分を助けなかったととがめた。

 レフはまた、母親がこの時期とレフの逮捕について書いた有名な詩「レクイエム」も好きではなかった。収容所で苦難の時期を過ごす息子ではなく、自分のことが強調されていたためだ。「夫は墓場、息子は牢屋。どうぞわたしのために祈っておくれ」と書いていた。

 収容所から解放された後、レフはステップと中央アジアの遊牧民の歴史に興味を持ち、研究活動を再開。そして研究していく過程で、最も有名な考え方すなわち情熱の概念を考え出した。これは、特定の民族集団の活動レベルと、活動がどう変化するかを示すもの。レフは、すべての民族集団がその歴史において、誕生から最盛期まで、そしてそこから慣性で減速する段階が同じであると主張した。民族の情熱が最大限になると、猛烈な指導者が生まれ、大きな征服が実行される。

 レフは、ロシア文明とは真のヨーロッパの実体ではなく、ユーラシアの地政学的、文化的現象だという理論を、ユーラシア主義で重視し、ロシア人を、トルコ人とモンゴル人の影響を幾分含む「超民族」だと考えた。そして、ロシア人とユーラシア東部のステップの民の同盟が重要だったことを強調した。この同盟により、ロシアがヨーロッパからの破壊的な影響に抵抗できたのである。

 レフの考え方は、ソ連に渦巻いていた懐疑的立場と一致した。1980年代後半、ゴルバチョフのペレストロイカの下で、レフの本が大量に出版されるようになり、状況は変わった。同時に、民族の情熱の理論は、検証性の難しさ故に、しばしば批判されている。