Believers attend an Orthodox Easter service at the Christ the Saviour Cathedral in Moscow, Russia, May 1, 2016
Reutersロシア通信
ロシアでは復活祭を必ず祝わねばならない。ロシアのように復活祭を祝う場所は世界のどこにもないからである――。19世紀、ロシア人の間で非常に敬愛され、イタリアで暮らすのを愛した作家のニコライ・ゴーゴリは復活祭の祝い方についてこのように書いた。この表現についてゴーゴリは、西側のクリスマスの伝統と比較して、ロシア人は死を皆で克服することにとくに焦点を当てており、ロシア文化も主に復活祭的なものであると説明している。
実際、復活祭はロシアにおいて重要なキリスト教の祝日である。この日、より正確にはその前日から復活祭の日にかけての夜、それまで教会を訪れたことのない者、あるいは自身と神とのかかわりを明確に理解していない者でさえ、十字架行進や礼拝のために正教会に足を運ぶ。ある意味で復活祭はロシア正教会においてもっとも庶民に近い祝日なのである。というのも火を灯したロウソクを手に教会の周りを歩く十字架行進には希望すれば誰でも参加できるからである。一方、多くのロシア人がカトリック教徒は復活祭をほとんどあるいはまったく祝わず、クリスマスや聖母マリヤだけを崇拝していると思っている。しかし実際には宗派は異なっても復活祭の祝い方にはそれほど多くの差はなく、その差も原則的なものではない。ロシアと西側で共通する復活祭のもっとも重要な考えはイエス・キリストの復活を信じる気持ちであり、これは正教もカトリックもプロテスタントも同様である。また誰がどのように復活祭を祝おうとキリストの復活は福音書において中心的位置を占める出来事である。そしてこれは、キリストが復活したのだから教徒たちもキリストの中で復活するという希望なのである。
違いは分裂から
ロンドンでイースター・フェスティバル、2017年3月30日=Reuters
東西のキリスト教徒の分裂は暦の問題をもたらした(ロシアではユリウス・カエサルによって紀元前1世紀に導入されたユリウス暦が用いられ、西側ではローマ教皇グレゴリウス13世が16世紀に制定したグレゴリオ暦が使われている)。この2つの暦のずれは13日(2100年にこのずれは14日になる)。すでに4世紀に教会では復活祭は「春分の日である3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝うと規定された。
正教徒らはユリウス暦の3月21日から最初の満月を数え、カトリック教徒たちはグレゴリオ暦で数える。復活祭の計算の難しさは、3月21日の後の最初の満月がときに同じ日にならないことである。しかしそれでも3回に1回はカトリックと正教の復活祭が重なることになる。
ヴァティカン、2017年4月9日=Reuters
重ならないときでも、例えばローマ法王とモスクワ総主教は常に互いに祝いの言葉を送り合った。ちなみにロシアではプロテスタントの大部分(ルーテル教会を除く)がロシア正教とともにユリウス暦で復活祭を祝う。ロシアでは教会は古いユリウス暦を厳しく遵守している。「新しいスタイル」が分裂を起こし、保守派たちの怒りをかう可能性があるからだ。
ロシア民族の声
正教徒にとって復活祭はきわめてエモーショナルな祝日である。復活祭の前の週のつらい礼拝と厳しい精進期の後、十字架行進と聖歌の交唱を終えた真夜中、司祭は扉が閉じられた教会の前の通りに立ち止まる。扉をあけ、主の棺の扉を象徴的に開き、皆に対しキリスト復活を宣言する。そして典礼の間中、司祭と信者たちは「ハリストス復活!」「実に復活!」という言葉を交わし合う。これは非常に印象的である。夜中、家々の上に、そしてこの時期たいていはまだ葉のついていない木々の上に、集まった多くの人々の歓喜の声が響き渡るのである。もう一人の偉大な詩人アレクサンドル・プーシキンは復活祭の夜にロシアの民の声を聞くために教会を訪れるのが好きだと書いている。
ブリュッセル、チョコレートのウサギ=Reuters
西欧では復活祭といえばウサギと卵がシンボルであるが、ロシアでは色や模様をつけたゆで卵と復活祭に焼く「クリーチ」と呼ばれる円筒形のケーキで祝うのが一般的だ。この復活祭のケーキはヨーロッパでも人気がある。復活祭のためのイタリアの焼き菓子レシピは多数あり、ロシアでもよく売れている。またロシアならではの伝統といえばカッテージチーズとレーズンとスパイスで作るピラミッド型の「パスハ」という甘いお菓子。これは主の棺のシンボルである。固ゆでの卵と卵をぶつけあい、どちらの卵が割れるかという遊びもよく行われる。一方、主婦たちは誰の卵の装飾がオリジナリティあふれたものかを競い、互いにそれを贈り合う(ニコライ2世は復活祭に有名なファベルジェの卵を贈った)。
7週間にもおよぶ大斎期の後に祝われる復活祭のテーブルには、当然ありとあらゆる肉料理が所狭しと並べられる。しかし例えばクリスマスのガチョウのように復活祭に特に用意される料理というものはない。1917年のロシア革命以前も、そばの実を詰めた仔豚の丸焼きから野鳥の肉に至るまで様々な料理がたくさん作られていた。
復活祭の日曜日にミーティノ墓地(モスクワ)に墓参する人々=ゲオリギー・クロレーシン/ロシア通信撮影
復活祭のお祝いには悲しい側面もある。復活祭の日曜日に墓参をし、墓地で近親者を追悼するという伝統がソ連時代の遺産として今も残っている。訪れた墓地で人々はゆで卵やクリーチを食べ、酒を飲むのである。ソ連時代、ロシア正教会はこうした習慣に何ら対策を講じなかった。講じることが不可能だったからだ。ソ連政府は宗教的な祝日を、墓場で祖先を追悼するという半ば異教的(キリスト教徒らの目から見て)な墓参行事に変え、とにかく教会から人々を遠ざけることができたことを歓迎した。残念ながら今なお教会はこの伝統を断ち切ることができずにいる。人々は変わらず復活祭の日に墓地へ行き、「墓参は別の日に行うべきだ」とする教会の呼びかけに耳を傾けない。ところでこの習慣については違った解釈もある。それは宗教が否定されていた無神論時代、教会や教区がそばになかったとき、人々は正教徒になるための自分なりの方法を見出していたのではないかという説である。
*ロマン・ルンキン氏(PhD)は、ロシア科学アカデミーヨーロッパ研究所宗教研究センター所長。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。