Bakhchisarai Palace
Lori / Legion-Mediaバフチサライ宮殿=Lori / Legion-Media撮影
現在まで残っている、クリミア・タタールの貴重な宮殿建築。この建築群が建設されたのは16世紀半ばで、初期の建物、サラ・ギュゼリ風呂と大きなハン・モスクは、1530年代に建てられている。ここにはハンのために特別に建てられたステンドグラスやタイル装飾のある建物も含まれている。モスクが今日も使われていることは驚きだ。
「バフチサライ宮殿は唯一のハンの邸宅ではなく、他に5つ、小さな宮殿があった。だがクリミアの指導者たちの主要な所在地はずっとバフチサライ宮殿だった」と、バフチサライ博物館・自然公園科学部のアンナ・ポルカノワ副部長は話す。
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バフチサライ宮殿は200年以上もクリミア・ハン国の政治の中心になり続けた。新しい指導者は毎回新しい建物を建て、今日まで残っている建築群の外観をつくり、自分自身を記憶させた。バフチサライ宮殿の数多くの噴水や庭園は、宮殿の名称をそのまま示している。「バフチサライ」とは、クリミア・タタール語で「宮殿・庭園」を意味する。休息と涼を与えてくれる場所は、地上の楽園を具現化しているようだ。
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「宮殿の建築群は、当時のクリミアの典型的な建築様式になっている。行政の建物以外に、ハンとその家族のプライベートな邸宅、図書館、モスク、その他の建物があった」とポルカノワ副部長。例えば、ディヴァンの間は宮殿内で最も壮観な場所の一つ。ここでハン国の重要な問題が決定されていた。橙色のラシャで覆われ、金色の刺繍が施された王座に、ハンは座っていた。側近は低いソファに、ハンの顧問は壁に沿って設置されたベンチに座っていた。内部の16世紀のステンドグラスと彫刻のある天井も残っている。
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1736年、オーストリア・ロシア・トルコ戦争中、バフチサライはロシア軍によって占拠された。「ミュンニヒ元帥の指揮の下、ロシア軍は初めてクリミアに入った。ミュンニヒ軍はバフチサライに到達し、宮殿とハン国の首都を焼いた」と、モスクワの国立歴史博物館のゲンナジー・マルシュトゥパ上級研究員は話す。その後、宮殿が修復された。
ロシア帝国は18世紀、クリミア・ハン国を徐々に治めていった。最後のクリミアのハン、シャヒン・ギライは1783年、王位放棄の証書に署名した。以来、バフチサライにはロシアの統治者があらわれるようになった。女帝エカテリーナ2世、皇帝アレクサンドル1世、皇帝アレクサンドル3世、また1912年にはロシア帝国の最後の皇帝ニコライ2世がここに滞在している。
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宮殿の敷地内で最も有名なモニュメントの一つは噴水「涙の泉」。一説によると、ギライの命令で、ギライが愛した女性の霊廟の脇に建てられた。滴る水は哀悼の涙を、受け皿は心を埋める悲哀を象徴している。
1820年、バフチサライに、有名な詩人アレクサンドル・プーシキンが訪れた。数年後、「バフチサライの泉」という詩を書いた。その一説「愛の泉、生きる泉!君に贈り物のバラを2本持ってきた...」が宮殿を有名にした。そして、毎日2本のバラがこの受け皿に置かれるようになった。
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