ステップ、歌、そしてワイン

ネクラーソフ・コサックの子供たち=

ネクラーソフ・コサックの子供たち=

エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影
 ネクラーソフ・コサックはロシアから追放され、移住後2世紀にわたる国外での生活を経て、灼熱の太陽が照りつけるカフカスの地に帰還した。

 帝国ロシアでは、自由とよりよい生活を求めて帝国の中の辺境の地に移住した者たちをコサックと呼んだ。彼らは自由に農業を営むことが許されたが、それと同時に自分自身、そして国境を守らなければならなかった。もともとコサックは現在のウクライナと南ロシアがある場所に発祥し、後にザヴォールジエ(ヴォルガ川左岸)、プレドウラルラーリエ(ウラル山脈西方)、シベリア、極東などにも現れるようになった。コサックを一つの民族と見なすべきか、あるいは特別な社会的グループと見なすべきかという問題をめぐっては、研究者たちの間で今なお議論が続いている。

 ロシア南部にはコサック軍や以前の生活様式を復活させようと試みる熱狂的な人々が存在するものの、それを除けば、現代ロシアにおいてコサック民族はほぼ消滅した。しかし、今ロシアでは本物のコサック村を見ることができる。それは革命と内戦(1917−1922)を国外で生き抜いた共同体の村なのだが、それがネクラーソフ・コサックの村である。

 ネクラーソフ・コサックという名は、250年前にロシア帝国から追放された共同体をトルコへと導いた彼らのリーダー、イグナート・ネクラーソフに由来する。ソ連時代になって、コサックたちの祖国への移住が実現され、1962年の大量移住の際には、215世帯、総勢985人という最大数のコサックがロシアに帰還した。祖国に戻ったコサックたちはスタヴロポリ地方のノヴォクムスキー村に移り住んだ。

ノヴォクムスキーに暮らす移住者たちの子孫=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影ノヴォクムスキーに暮らす移住者たちの子孫=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 

コサックたちの田舎の生活

 ネクラーソフ・コサックが暮らす村は地図にはないほど小さい。その村はカフカスのもっとも南に位置するダゲスタン共和国との国境あたりのステップにひっそりと存在している。

 ノヴォクムスキーに向かう道で目に飛び込んでくるのは焼け野と大食いのバッタの大群だ。一方、この地方では、厳しい大陸性気候であるにもかかわらずブドウが生育しており、ステップの夏を感じさせる渋みのあるワインが造られている。ブドウの栽培と収穫を始めたのは、ほかならぬ最初にこの地に移住してきたネクラーソフ・コサックだった。ソ連時代、新たな農業分野で人手が不足していたためだ。

 コサック女性のひとり、ワルワラ・ゴーリナさんはこう話す。「トルコでは十字架を奪い取られました。わたしたちは大きな川、ドンがあるところに戻れる日を夢見ていました。移住しないかと勧められ、連れて行かれたのはステップでした。そこは小さな川すらない場所だったのです」。ワルワラさんは24歳のとき、夫と息子とともにロシアに移り住んだ。現在、彼女は80歳を超えている。

ワルワラ・ゴーリナさん=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影ワルワラ・ゴーリナさん=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 「移住はとてもつらいものでした。牛や山羊は鳴き叫び、犬は吠えまくり、鶏も大きな声を上げました。まるでわたしたちが農場にもう戻ってこないことを理解しているかのようでした。当時、お金はまったくありませんでした。こちらに移ってきたとき、一世帯に一室ずつ部屋が与えられ、後に家を建ててもらうことができました」

 

イグナートの遺訓

 ネクラーソフ・コサックはロシア国外で孤立を守り、250年前に彼らを見知らぬ土地へと導いたイグナート・ネクラーソフの遺訓に従い、生活を送りました。この遺訓は口頭で伝えられたもので、どこにも文字には記されていません。

 ワルワラさんは「わたしたちは文盲で、読むことができません。しかし男性が共同体の女性としか結婚できないということは覚えていました。血が混ざらないようにするためです。きっとそうして生き延びてきたのでしょう」と話す。

観光客を前に、自分たちの祖先の暮らしぶりについて話す移住者の子孫=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影観光客を前に、自分たちの祖先の暮らしぶりについて話す移住者の子孫=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 民族学者たちは、ネクラーソフ・コサックの独自の文化が守られたのは隔離されていたことによるものだと考えている。小さな民族は祖国を離れて200年もの間、帝国ロシアにいたときと同じ形で自分たちのしきたりを守り抜いた。

 そこでノヴォクムスキーには世界で初めての、そして世界で唯一のネクラーソフ・コサック歴史博物館が建てられ、そばには革命以前の民族特有の生活様式を再現した民俗村が作られた。ネクラーソフ・コサックはこの民俗村にやってきて、特別に民族特有の衣装を身につけ、観光客やその他の訪問客を出迎える。

ネクラーソフ・コサック歴史博物館にあるコサックの部屋の伝統的な調度品の一部=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影ネクラーソフ・コサック歴史博物館にあるコサックの部屋の伝統的な調度品の一部=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 

衣装と宗教

 ネクラーソフ・コサックの伝統衣装は色鮮やかで非常に印象的だ。袖と裾は、緑、金、深紅、オレンジ、青、紫といったさまざまな色が絶妙に組み合わされて作られている。これは祝祭用の衣装で、日曜日や宗教上の祭日に身につけるものだ。

 職人のヴィクトリヤさんは「トルコでは、わたしたちも祖先と同じく、このような格好をしていました。加えて、女性は頭を覆い、生花で飾りました」と話す。

 ヴィクトリヤさんはビーズとワイヤーでスカーフのサイドに飾るアクセサリーを編む。このアクサセリーを付けないのは喪に服している未亡人だけだという。

 「ほら、これを見てください。わたしたちと同じような衣装をつけているんです」とヴィクトリヤさんは刺繍で作られた顔がついた豪華な衣装をつけた人形を見せてくれた。「これはネクラーソフ・コサックの人形で、わたしたちはハリューシカと名付けました。女性なら誰もが自分の人形を持っています」

ネクラーソフ・コサックの伝統的な人形=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影ネクラーソフ・コサックの伝統的な人形=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 「人形、それから観光客に聞かせるお話・・・。ところでご主人たちはどのような仕事をされているのですか?」

 「街に出稼ぎに行っている人もいます。年老いた女性のご主人たちはすでに土の中に眠っています。わたしたちは彼らのために祈ります」。

 正統派ネクラーソフ・コサックの文化において、女性は男性に従属した関係にある。

 「もし通りで男性を見かければ、その人の年齢にかかわらず、頭を下げ、その男性が通り過ぎるまで待たなければなりません。たとえ両肩に重い荷物を背負っていたとしても、です。わたしたちの宗教ではそのように教えられているのです」

 ネクラーソフ・コサックは敬虔な古儀式派信者である。そこで彼らはスタヴロポリ地方に着いたとき、すぐに自分たちのお金で小さな古儀式派の教会を建てた。人々は教会に礼拝に行き、そこで懺悔をする。また部屋に入るときには、住まいに必ず飾ってあるイコン(聖像画)に十字を切るのが習わしだ。

夜ごとに歌をうたうコサック=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影夜ごとに歌をうたうコサック=エカチェリーナ・フィリポヴィチ撮影

 別れのときがくると、ネクラーソフ・コサックたちは歌をうたう。広大な川の無限の広がり、自由、そして不幸せな恋について歌ったものだ。コサックの歌う古いロシア語の響きは音調を変え、聴く人を眠りに誘う。その歌を聴いていると、彼らが2世紀前と同じ歌をうたうことほど自然なことはないような気がしてくるのである。

もっと読む:20世紀のコサックの運命>>>