伝説的映画「モスクワは涙を信じない」

写真提供:ロシア通信

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4月6日の「ロシースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)」によるインターネット映画祭「Dubl dv@」のオープニングで、ロシア映画界の有名なカップルとして広く知られているウラジーミル・メニショフ監督、女優ヴェーラ・アレントワ夫妻が、映画芸術貢献賞を受ける。今年で製作35周年をむかえる映画『モスクワは涙を信じない』を改めて振り返ってみよう。

 『モスクワは涙を信じない』がモスクワで封切られたのは1979年の暮。だが、9000万人の観客を集めたこの映画の上映がピークをむかえたのは1980年だ。1980年2月11日に、早くもこの映画の最初のテレビ放映が行われ、1年後の1981年にはアカデミー外国語映画賞を受賞した。

 

「女性映画」の変容 

 実際のところ、メニショフ監督が作品の基礎に据えたのは、当時ハリウッドで流行していた「女性映画」のストーリーだった。1959年に米国で、当時の「新しい」自由な女性たちが直面する問題をテーマにしたメロドラマの成功作『ザ・ベスト・オブ・エブリシング』が誕生した。出版業で成功して素敵な結婚をしたいという望みを抱いてニューヨークへやってきた女性たちの話だ。仕事と恋の成功を勝ち取る定石はないことを示す映画で、映画が成功したポイントになったのは、女性たちがさまざまな運命をたどるストーリー。

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 『モスクワは涙を信じない』はシンデレラ物語とされているが、多くの人は、映画の最初に登場するのが3人の女友達であることを忘れている。粘り強い性格のカテリーナ(ヴェーラ・アレントワ)、軽薄なリュドミラ(イリーナ・ムラビヨワ)、おとなしいアントニナ(ライーサ・リャザノワ)の3人だ。リュドミラとアントニナがたどる運命は、中心となるプロットを見事に浮かび上がらせている。その後、同じような筋が米国のテレビに場所を変え、そこから『セックス・アンド・ザ・シティ』や『ガールズ』などの作品が生まれた。

 

夫婦二人三脚の「明るい道」 

 ソ連映画産業は、長期にわたる映画人同盟の存続にふさわしいものとなった。『モスクワは涙を信じない』は、メニショフ監督と女優アレントワによって、1930~40年代のゲオルギー・アレクサンドロフ監督、女優リュボフィ・オルロワ夫妻と同様に、1980年代の伝説になったのだ。この2組のカップルには共通点が少なくない。『モスクワは涙を信じない』は、2人にとって、アレクサンドロフ監督夫妻の映画の題名と同じ「明るい道」になった。これは、最初は懸命に働き、職場で出世して、その後ようやく自分の王子様に出会うというソ連式シンデレラ物語。遅い出会いで、相手は恰好よくはないが、頼りがいのある男性だ。

 38歳で若い模範労働者を演じたオルロワと同様に、アレントワは同じ年齢で、モスクワを席巻しようとやってきた女子学生カテリーナ・チホミロワの役を演じた。実年齢との差は映画の妨げにはならなかった。映画の第2部は、第1部から長い年月が経っており、その成長した女主人公が幸運に恵まれるのだから。

 

リアルなシンデレラ 

 だがシンデレラ物語はシニカルに変貌する。1930~40年代の女主人公には、セックス・ライフの存在は言うまでもなく、失望のあとの落ち込みを耐え抜く場面などという可能性はなかった。無責任なマザコン青年の子を宿したカテリーナは、ソ連式階級制における自分の真の位置を思い知らされる。世間の非難の声にさらされて、シングルマザーの苦しみを体験する。彼女の立場で、当時の階級制の階段を頂点まで登るには、辛い労働と夜毎の学業を耐え抜く道しかなかったのだ。

 このシングルマザー状態こそが、映画が非難される原因になった。映画の国際的な成功は、メニショフ監督が世界的傾向にほとんど遅れていなかったことによっても説明することができる。ハリウッドでヘイズ・コード検閲制度が廃止されたのは、ようやく1960年代末のことで、それ以前には、結婚前のセックスを見せることなどは厳禁だった。オスタンキノ・テレビのカメラマン、ルドリフの誘惑に負けた「軽薄な」カテリーナは、スクリーンでこんな女主人公を見たがらない官僚たちの非難の嵐を呼んだ。「このソ連女性にふさわしくない涙のメロドラマ」に対する態度を軟化させたのは、興行的成功とアカデミー賞だけだった。

 

オスカーを“強奪” 

 メニショフ監督のアカデミー賞受賞にまつわる話は、当時の状況をよく表している。1981年のアカデミー賞授与式への出席をメニショフ監督は許可されなかった。彼は4月1日にテレビでこのニュースを知り、これは宝くじみたいなものだと断言した。こうしてこの映画は、アカデミー賞はおよそ10年に1度のペースでロシア映画が受賞するという伝統を守った。1868年には『戦争と平和』が、1975年には黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』が、1994年には『太陽に灼かれて』が受賞したのだ。その後アカデミー賞のブロンズ像はゴスキノ(国家映画委員会)に保管され、メニショフはブロンズ像を事実上、奪い取るほかなかった。1989年に、ロシア映画賞であるニカ賞が彼に授与されたとき、そのブロンズ像も、「貸し出すために」ゴスキノから持ち出された。メニショフはそれを返却しなかった。彼には返却しない当然の権利があったのだ。メニショフ監督が製作した映画の女主人公たちが、困難な道を経て幸福に到達したのと同じように、ついにメニショフ監督は名実ともに、世界の映画界で最も価値あるアカデミー賞の「保持者」になった。その成功が正当であったことは、時がこれを証明している。

 

*インターネット映画祭「Dubl dv@」の映画は、英語の字幕付きで、こちらで見ることができる。

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