1901年、リオネル・ファイニンガーの風刺画
1901年、リオネル・ファイニンガーの風刺画
翌日、このニュースは主要各紙で報道されたが、その決定の骨子は、作家が公言している信条は正教徒にあるまじきものであり、彼はもはや教会の成員ではない、というものだった。これが実際に意味するのは、彼はもはやいかなる機密(カトリックの秘跡に相当)も――痛悔機密も聖体機密も聖傅機密も――受けることができず、とくに正教の儀式に則って葬儀を行えなくなることだった。
この決定はある意味では宗務院の独断で、その発案者はサンクトペテルブルク府主教アントニイだった。宗務院は、彼の圧力を受けて、宗務院大監察のコンスタンティン・ポベドノースツェフを押し切り、これを決めた。
なるほど、ポベドノースツェフは、トルストイの不倶戴天の敵ではあったが、こういう措置は作家に「殉教者の後光」を加えるだけだと考えていた(ポベドノースツェフは、トルストイの長編『復活』で、「鈍感で道徳的感情の欠けた」政府高官トポロフとして、戯画的に描かれている)。ロシア革命後に発表されたポベドノースツェフとニコライ2世の往復書簡からも、ツァーリもまたこの決定を支持していなかったことが判明している。
賛否両論の嵐
トルストイの「破門」の報道は、爆弾が炸裂したような反応を呼び起こした。各新聞には瞬く間に、大量の投書が――「神なき伯爵」を呪詛するものも、その迫害者を呪うものも――寄せられた。
一方、宗務院には、トルストイの迫害者と同じ教会に属していたくないから自分も破門してくれ、という趣旨の手紙も何通か送られてきた。トルストイの「迷妄」を犯罪的だと決め付ける知識人らも、宗務院のような官僚機構が作家をキリスト自身から破門することはできない云々、といった意見を吐いた。
にもかかわらず、ロシア正教会のトルストイに対する立場は、見直されることがなかった。作家の葬儀に際して「埋葬式(正教会における葬儀)」が行われたとの報道がなされると、神学校はすかさず次のような声明を出した。「このセレモニーは、埋葬式ではあり得ず、個人的な祈りとみなすことさえできない」
100年目の請願
「破門」からちょうど1世紀後の2001年に、トルストイの玄孫、ウラジーミル・トルストイ氏(現トルストイ生家・博物館「ヤースナヤ・ポリャーナ」の館長、ロシア連邦大統領文化顧問)が、総主教管区に対し、破門取り消しを提起したところ、「正教会は破門していない。トルストイ自身が教会から離れたので、教会はその事実を追認しただけだ」という主旨の回答があった。
また、作家の没後100年にあたる2010年にも、セルゲイ・ステパーシン・会計検査院議長(当時)が、同様の請願をしたところ、何冊かのベストセラーを出しているチーホン・シェフクノフ掌院(府主教管区・文化委員会責任書記)は、自ら教会を拒否した人間の破門は取り消しようがないと答えた。
レフ・トルストイ伯に関する至聖なる宗務院決定、1901年2月20~22日
…世界的に知られた作家で、生まれはロシア人であり、洗礼と教育によって正教徒であるトルストイ伯爵は、その高慢な知恵に血迷い、傲岸不遜にも、主とキリストとその聖なる宝に抗し、万人の前で、キリストを養い育てた聖母と正教会をあからさまに否定し、その文筆活動と神より与えられた才能を傾けて、民の中にキリストと教会に背く教えを広めた。<…>これにより教会は、トルストイ伯が悔い改め、教会との紐帯を回復するまでは、彼を成員とはみなさず、そうみなすこともできない。<…>信仰を保持している、トルストイ伯の近親者たちは、彼が生涯の終わりにあたり、教会の祝福と祈りを拒み、あらゆる絆を断ち切って、神と我らが救世主への信仰を失ったことを悲しんでいる。
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