『三位一体』=ウラジーミル・ヴドーヴィン撮影/ロシア通信
オスマンからスラヴへ
イコン画家のフェオファンはビザンチン出身だったことから、ルーシでは「グレク(ギリシャ人)」と呼ばれていた(当時のビザンチン教会はギリシャ教会と呼ばれていた)。フェオファンに関する記述は乏しく、生年月日、死亡年月日、出生地、埋葬地、ルーシに来た理由などはわかっていない。年代記には4回記されている。具体的には、大ノヴゴロドのイリヤ通りの救世主顕栄教会を描いた1377年、弟子とモスクワの生神女誕生教会を描いた1395年、モスクワの聖天使首大聖堂で描いた1399年、ルブリョフおよびゴロデツのプロホルとモスクワ・クレムリンの生神女福音大聖堂を描き、イコノスタス(聖障)をつくった1405年。フェオファンの主な情報源になっているのは、フェオファンの同時代人で、ロシアの有名な聖者伝作家である、賢者エピファニイが、友人の白湖のキリル宛てに1413年に書いた手紙である。
エピファニイは手紙の中で、フェオファンがルーシに来るまでに、コンスタンチン(コンスタンティノープル)、カルケドン、ガラフ、カフ(クリミアの現フェオドシヤ)で多くの教会に絵を描いていたことを記している。すでに有名な画家となっていたフェオファンは14世紀後半、オスマンから全方面の攻撃を受けていたビザンチンが危機に陥ったため、去ることを決意したようだ。教会のためにイコン画家をビザンチンから招待するというのは、当時一般的だったらしい。年代記は例えば、フェオファンよりも半世紀早くノヴゴロドの教会に絵を描いていた、イサアキイ・グレクという人物についても言及している。
ウラジーミル・ヴドーヴィン撮影/ロシア通信
エピファニイによると、フェオファンは大活躍していたようだ。その生涯で40教会以上に絵を描いている。今日まで残っているフェオファンのイコン画やフレスコ画としては、イリヤ通りの救世主顕栄教会およびモスクワ・クレムリンの生神女福音大聖堂のイコノスタスの聖像しかないが、それだけでもなぜ有名になったかがわかる。フェオファンはロシアの土壌に、まったく異なるイコン画の伝統を植え付けた。敏捷で、情熱的で、ほとんど図式的でさえあるその流儀は、ロシア派イコンに見られる柔和で穏やかな聖人像とは対照的で、見る人に強い感情を起こさせた。
エピファニイはフェオファンの仕事に深く感動していた。「フェオファンが絵を描く時に見本を覗いている姿を誰も見たことがない。よくわからずに、見本を見ながら視線をひんぱんに動かし、絵の具で描くよりも見本を見ている方が長いような、一部のここのイコン画家とは違う。フェオファンは手で絵を描き、足で立ちながら終始移動し、来る人と会話し、頭で高尚かつ賢いことを考え、鋭く賢い目で賢いものに優しさを見る」
厳しい表情のイコン
フェオファンはヘシュカスム、静寂主義を信奉していた。これは禁欲、自己没頭、内面での神との合一、神の認識を意味するキリスト教の教義で、現代で言うところの瞑想である。フェオファンは感情におよぼすイコンの影響がこの過程を助けると信じていた。しかしながら、フェオファンの神はロシア正教の世界観と異なっていた。イリヤ通りの救世主顕栄教会の丸屋根に描かれ、今日まで残っている救世主全能者のフレスコ半身画は、あらゆる罪深い人に向けられるような憤怒に満ちている。厳しさはフェオファンの絵の特徴である。ルブリョフの絵に特徴的な温厚さはない。フェオファンお気に入りのフレスコ画は威嚇的な登塔者、隠遁者である。
フェオファンの作品には、たくさんの有名なイコン画、フレスコ画がある。中には有名な両面イコン、ドンスコイの生神女もある。ドミトリー・ドンスコイはクリコヴォの戦いの勝利をこのイコンの前で祈った。現在はトレチャコフ美術館に所蔵されている。生神女就寝(1380)、主の顕栄(1408)の作者もフェオファンと考えられている。
フェオファンは教会だけでなく、個人の依頼にも応じていた。優れた挿絵家、微細画家であり、中世の傑作書物、大貴族フョードル・コシカの福音書の挿絵を描いたとも言われている。どの章も美しく装飾され、動物風の文字から文章が始まっている。
現代まで残っているフェオファンの作品は少ないが、ロシア文化におよぼした影響ははかり知れない。イコン学校を創設し、多くの才能ある職人を輩出している。フェオファン自身はルブリョフの師匠であった。そしてフェオファンは、ロシア史で初めて聖人の全身像をイコノスタス(モスクワ・クレムリン生神女福音大聖堂)に取り込んだ人である。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。