ドリトル先生がアいたた先生に

写真提供:RIA Novosti & AFP/East News

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ソ連の児童文学には、外国の児童文学の翻案版がある。それは時に、原作に負けず劣らずのおもしろい作品に仕上がっている。欧米の文学のキャラクターたちは、ソ連でどんな風に変わったのだろうか。

 欧米の傑作児童文学の多くが、ロシアで翻案版になっている。それは「クマのプーさん」、「やねの上のカールソン」、「メアリー・ポピンズ」、「不思議の国のアリス」、「ニルスのふしぎな旅」、「ロビンソン・クルーソー」など。中でも代表的な翻案作品を特集する。 

ドリトル先生と仲間たち

 小説家コルネイ・チュコフスキーとそのアイボリット先生(アいたた先生)からすべてが始まった。アイボリット先生は、ヒュー・ロフティングが生んだドリトル先生の親戚。チュコフスキーは、ロフティングとは関係なく、優しい先生の物語を書こうと考えていた。「10月革命前から童話を書こうと思っていた。ヴィリノ(現ヴィリニュス)に住む、アイボリット先生のような先生に出会ったから。名前はシャバド先生。それまでの人生で会った人の中で、一番優しい人だった。貧しい子どもを無料で治療していた。子どもたちは病気の動物も連れてきていて、こんなに優しい先生を童話にできたらいいなと思っていた」

 だがロフティングが最初に先生の本を出版したため、チュコフスキーはその作品を翻案することにした。「ロフティングのかわいい童話をロシアの子どものために翻案しながら、アイボリット先生に変えた。他にも原作にはいない、実在する人物を何人も作品に取り入れた」と、チュコフスキーは「老いた童話作家の思い出」に書いている。

 1925年に絵本「バルマレイ」が出版され、ここからアイボリット先生と悪党のバルマレイの対決シリーズが始まる。一部ロフティングの作品をほうふつとさせるが、ほぼ独自の物語に仕上がっており、ソ連の子どもたちからはとても愛された。 

ピノッキオとブラチーノ

 「金の鍵~ブラチーノの冒険」は、ソ連でもっとも人気の高かった童話である。ソ連時代だけでも、1821450万部発行された。1936年にソ連の児童新聞「ピオネール・プラウダ」に掲載されたのが最初。

 当初は翻訳版になる予定だった。だが作家のアレクセイ・トルストイは「ピノッキオの冒険」の主人公をそのままにしておくことができず、木の人形たちを独自の世界に導いた。1935年、トルストイはマクシム・ゴーリキーにこんな手紙を書いた。「『ピノッキオ』に取り組んでいるのだけど、最初はコッローディの作品をそのままロシア語にしたかっただけなのに、退屈で味気なく感じてきて、今は同じテーマの独自の作品を書いている」

 トルストイはピノッキオの名前をブラチーノに変えただけでなく、陽気でいたずら好きな木の人形のまま残した。鼻の長さはピノッキオと同じになっている。実はそれほど怖くない人形劇場の支配人マンジャフォーコは、厳しいカラバス・バラバスになっている。俳優の人形たちはバラバスから逃げ、さまざまな冒険をした後で、自分たちの劇場をつくる。金の鍵は物語のシンボルで、その鍵で扉を開けると幸福な世界が広がる。

 冒険的でハッピーエンドな物語は子どもに愛され、また隠喩、回文、言葉遊びなどで大人にも評価された。ソ連の女の子は青い髪のマリヴィーナ人形(ピノッキオでは青い髪の仙女)の衣装を新年のお祝いで着ることを夢見て、ブラチーノは炭酸水のブランド名になった。また「金の鍵」の飴、パロディー、映画化など、さまざまな商品や作品になった。 

ホッタブィチおじいさんは陽気なジン

 ソ連の風刺雑誌「クロコダイル」の編集長だった作家のラザリ・ラギンは、アラブのジンをソ連風に翻案した。「ソ連の普通の少年がジンを入れ物から救い出したらどうなるのか、この幸福な社会主義国の人々はどんな風になるのかを想像した」

 ジンはソ連の現実になじみ、解放してくれた恩人でイデオロギー的に正しいピオネールのヴォリカの役に立とうとし、サーカス、サッカーの試合について行き、船に乗り、おかしなことに遭遇する。ラギンの作品は独自のプロパガンダで、現代ロシアの児童文学にはあまり合わないが、当時の子どもはこれを読んで楽しんでいた。

 ラギン自身は序文で「千夜一夜物語」および「アラジンと魔法のランプ」を読者にすすめているが、エフ・アンスティの「黄銅の壺」については言及していない。ラギンは構想、一部詳細、シーンなどでアンスティと重なっている部分がある。最初に「ホッタブィチ老」が掲載されたのは1938年。やはりソ連の児童新聞「ピオネール・プラウダ」であった。その後個別に出版。1955年にラギンによって大きく書きなおされ、映画化された。これによってさらに人気が増した。 

エメラルド・シティの魔法使いはオズの国から

 教育学者のアレクサンドル・ヴォルコフは、英語を完全に習得するために、ライマン・ボームの児童文学を手にした。本がとても魅力的だったため、自国の児童に語り聞かせ、翻訳した。その後翻案し、児童出版社の編集長にそれを送った。

 アメリカで映画「オズの魔法使」が公開された1939年、ソ連でロシア版が初出版された。初版は表題紙に「ライマン・F.ボーム童話モチーフ」と遠慮がちに書かれた、原作に近いものだった。ドロシーはエリーで、その犬のトトシカは会話ができた。その後の話にはオリジナル性が増し、次第に原作についての言及が消えて行った。

 「エメラルド・シティの魔法使い」は大人気となり、ヴォルコフには読者からの続編を望む手紙が多数届いた。ヴォルコフは25年後に5冊の続編を書いた。細かな部分を除き、あらすじはボームの童話とはまったく違うものであった。