ソ連時代の広告

タス通信

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広告と言えば商品が一般的だが、ソ連ではこれが国の発信する社会や政治の情報であった。

 ロシア帝国では1917年まで、欧米諸国と同様、看板、新聞や雑誌の広告、ポスターなど、商業広告が繁栄していた。すべてが変わったのはロシア革命後。私有財産が消え、新しい規則が定められた。競合、競争のないソ連の計画経済では、商業広告はシステムに合わない不要なものであり、社会広告とプロパガンダを発展させた。イデオロギーやそれに関連するすべてが、過度に重視されていた。 

ロシア革命時代の広告

画像提供:ロシア通信

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 国立高等経済学院のスヴェトラーナ・ショモワ教授はこう話す。「ボリシェヴィキが政権に就いた時、土地に関する布告、平和に関する布告などの有名な布告とともに、『広告に関する布告』と呼べる文書が発行された。レーニンは191711月、国家広告モノポリー実施に関する布告に署名した。お金を支払って定期刊行物に広告を印刷するのは国家の特権で、それも政府や最高会議の出版社のみで可能だった。これは自由な情報流通を止め、広告は国家の管理下に置かれた」

 新しい国家には国内外に多くの敵がいたため、政治を中心とする、新たな課題をつきつけた。後に内戦時代のソ連プロパガンダの象徴となるポスター、「志願兵として登録したか」や「赤のくさびで白を叩け」があらわれた。識字率を高めること、国債の購入を人々に説得することも必要で、これらの課題すべてを、広告や宣伝で解決しなければならなかった。

 飢餓や混乱にもかかわらず、ボリシェヴィキは扇動に金をおしまず、列車や船を使って国中で新政権をアピール。才能のある人物も採用した。偉大なる詩人のウラジーミル・マヤコフスキーは、辛辣な押韻スローガンのある扇動シリーズ「ロスタの窓」を担当していた。 

新経済政策

 1920年代初めに新経済政策(ネップ)が始まり、ボリシェヴィキは一時的に民間生産と商売を許可。高額なレストラン、毛皮、シャンペンの時代は、一種の革命前の贅沢なブルジョア生活のルネサンスであった。

 自由商売によって、広告がたちまち繁栄。マヤコフスキーと芸術家のアレクサンドル・ロトチェンコの「広告立案者」同盟が生まれた。ロシア・デザイナー連盟のタチヤナ・コズロワ氏はこうロシアNOWに話した。「マヤコフスキーとロトチェンコの広告は構成主義。それまで世界で主流だった、色調の調和と女性的な丸みを帯びた文字のある現代主義とはまったく異なっていた。厳格な直線と鮮明な鋭い色彩は画期的で、ポスターは生活が変わるという国民へのシグナルだった。世界にこのような美学はなく、いまだにロシア構成主義への世界の関心は高い」。ソ連のポスターは、世界のオークションで高値で取り引きされている。 

第二次世界大戦と戦後

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 第二次世界大戦の時代、ククルィニクスィ(ミハイル・クプリヤノフ、ポルフィリー・クルィロフ、ニコライ・ソコロフ)と、2008年に108歳で死去したボリス・エフィモフが、広告界で活躍。反ファシスト的なポスターや、雑誌向けの反戦カリカチュアを描いていた。あるポスターには、ナチス・ドイツ軍が歩きながら、徐々に墓地の十字架に変わっていく絵が描かれている。

 この時代にふさわしい広告である。ショモワ教授はこう話す。「広告は置かれた状況の中で発展する。革命後は政治広告、19201930年には社会広告が発展した。戦後は『経済復興』をテーマとした生産ポスターが主流になった。産業が発達した19501960年代、ショーウィンドー、見本市、商標、商業ポスターなどが発展し始めた」 

テレビの発達

 19601970年代、ソ連の広告はテレビにも浸透する。ソ連では民間放送はなく、どのチャンネルも国営だった。番組の途中でCMが流れることはなく、番組が終わった後に、ミニ映画が流れていた。15秒や30秒といった、現在のような短いものではなかった。

 自動車「ザポロジェツ」のCMでは、リポーターが魅力について語った後、自動車販売会社の社長にインタビューを行うと、社長は新車の生産台数が限られているため、古いモデルしか販売できないと、悩みを話す。「商品やサービスのアピールは広告の主要な課題ではなかった。生活は贅沢からはほど遠く、広告には情報、教育(行動見本)、文化的実践構築の機能が備わっていた」とショモワ教授。

 公共の場のポスターや横断幕は日常生活をつくりあげた。「パンは人民の財産、大切に」、「退室時は消灯」などのポスターは、行動規範であり、価値観を育てた。

 商業広告はあったが、個別の商品ではなく、国営保険、インツーリスト・システム、国営銀行、アエロフロート航空会社などの組織網の広告であった。「アエロフロートの飛行機でご旅行を」という宣伝文句は、この会社のサービスを利用した外国人にも向けられていた。 

ペレストロイカとグラスノスチ

 ミハイル・ゴルバチョフ氏が1985年にソ連共産党書記長に就任すると、政策は徐々に自由化されていった。社会問題の批判、アメリカとのテレビ中継対話、若者が自由な言語で討論する番組なども放送されるようになった。国は民間の事業を許可し、CMは商業的で、欧米のような内容になっていった。初期のCMは、商業広告の経験の浅さから不器用なものであるが、ソ連からロシアへと変わり、次第に世界のメディア界に融合し、文化の差が消えていった。