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最新の歴史の撤去
クレムリンの14号棟は、スパスカヤ塔の門とセナツカヤ(元老院)塔のあいだにある。それは、1934年にチュードフとヴォズネセンスキイの両修道院の場所に建築家イヴァン・レールベルグによって建てられたもので、その両修道院は、1929年から1930年にかけて宗教弾圧の枠内で撤去された。当時は、全国で多数の教会が破壊された。
当初は、建物の大改修が計画されていたが、大統領は、改修よりも撤去のほうが合理的であるとみなす。行政棟は、短いとはいえ充実した歴史を具えている。1930年代、そこには兵学校が置かれていたが、ほどなく、兵学校はもっと広い場所へ移され、この建物には、最高会議幹部会の事務局および警備司令部が置かれた。1958年、建物の一部は、クレムリン劇場用に改築されもしたが、この建物は、もともと大衆的催事には不向きであり、そのうえクレムリンの規制対象部分にあり、このことが、大勢の観客を受け入れるためのネックとなり、1961年、その構想は断念された。
ソ連時代末期の1991年、当時の大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏は、その少し前にロシア連邦(当時はソ連邦構成下)の大統領に選ばれたボリス・エリツィン氏にこの建物の一部を割り当てた。ソ連崩壊後、14号棟には照明が施されるようになり、2008年まで、そこではロシア大統領の記者会見が定期的に行われていた。
再建もしくは新造
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建物の撤去それ自体は、とくべつの異論を呼び起こしてはいない(それは建築文化財ではない)が、ユネスコの世界遺産に登録されているモスクワのクレムリンの景観を損なうおそれがある。大統領総務局のヴィクトル・フレーコフ報道官は、こう語る。「現時点で決定されているのは改修の停止についてのみで、撤去についてはユネスコと協議する必要があります」
古い修道院の外観を正確に甦らせることは、果たして可能なのだろうか? 社会運動「アルフナドゾール」のコーディネーター、ルスタム・ラフマトゥーリン氏は、そのための情報が不足している(建築設計図は保存されていない)ので不正確で歴史的検証がなされていない複製になる、とみなしており、著名な建築家のミハイル・レーイキン氏は、そうした意見に同調しつつも、1936年に撤去されて1990年から1993年にかけて新たに建造された赤の広場のカザンの聖母大聖堂の成功例を挙げた。
チュードフとヴォズネセーンスキイの両修道院は、ロシア最古の修道院に類し、それらは、1365年と1386年に開基されたが、度重なる破壊や増築のために当初の外観が損なわれている。それでも、一連の建築家は、保存されている多数の写真に基づいて修道院を再建する構想を支持し、モスクワ建築家同盟のアレクセイ・バヴィーキン副会長は、こう語る。「それはまったく現実的なことで、難しいことは一つもありません。完全な相似は望めないにしても…」
ヴィクトル・フレーコフ氏は、仮にユネスコが行政棟の撤去を是認しても修道院が直ちに着工されることはない、とし、こう語る。「ユネスコとの合意が達せられたら、私たちは、建築家同盟や建築文化財保護団体の代表および博物館の職員といった専門家らとの幅広い協議に入ります」
パブリックドメインとしてのクレムリン
大統領の発言にどう反応すべきか、今のところ誰にも分からない。建物の撤去は行われるのか否か(ユネスコ次第)、修道院は再建されるのか否か(これに関する協議は緒に就いたばかり)。両修道院の残存する古い基礎をきれいにして、撤去された場所に(撤去される場合)建築パークを創建する、という選択肢もある。
といはえ、大事なのは、別のこと、つまり、これまでは一般に公開されていなかったクレムリンの区画がこれからは規制対象から外されること、である。少し前、クレムリンでは、これまでは大統領の車列やクレムリンの新年のツリーしか通らなかったスパスカヤ塔の門を旅行者に開放する決定が行われ、先日、クレムリンの管理責任者セルゲイ・フレーブニコフ氏は、こう語った。「ボロヴィツカヤ塔からタイニツカヤ(秘密)塔までの区画は、一般に公開されることになり、クレムリンは、領域の一部を「手放し」、それを規制対象のステータスから観光スポットのステータスへ移します」
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