国章「双頭の鷲」の由来

ソ連崩壊後、国章の選定を担当する特別委員会の3年に及ぶ作業の結果、双頭の鷲がロシアで復活。2月革命後の国章に似た、冠、王笏、権標のない国章が、ボリス・エリツィン大統領令によって1993年に承認された。=タス通信

ソ連崩壊後、国章の選定を担当する特別委員会の3年に及ぶ作業の結果、双頭の鷲がロシアで復活。2月革命後の国章に似た、冠、王笏、権標のない国章が、ボリス・エリツィン大統領令によって1993年に承認された。=タス通信

ソ連が崩壊してすでに20年以上が経過しているが、多くの外国人にとってロシアのシンボルとは、依然として「鎌と槌」(1923年7月6日承認)のようだ。ロシアの現在の国章はまったく異なるもので、その歴史はビザンツ帝国時代までさかのぼる。

起源と伝播 

 ロシア連邦の国章は「双頭の鷲」。もっとも古いインド・ヨーロッパのシンボルの一つ。その歴史にはキリスト教、異教、ゾロアスター教、帝政時代、封建制の崩壊が混ざり合っている。文明と国家がそっくり過去のものとなっても、双頭の鷲は西アジアと東ヨーロッパの民の上を“飛び続けていた”。

 双頭の鷲が初めて標章になったのはヒッタイト王国。紀元前17~12世紀に現在のトルコ領域の大部分を占めていた国だ。ローマ帝国の一頭の鷲の継承者であるビザンツ帝国も、双頭の鷲を採用した。パレオロゴス王朝の標章となった双頭の鷲は、すぐに東方教会全体のシンボルにもなり、セルビア・モンテネグロ、ドイツ(神聖ローマ帝国)、アルメニアの標章となりながら、キリスト教世界全体に広まっていく。

 

ロシアへの“飛来” 

 ロシアに鷲が到達したのは13世紀。古代ルーシのシンボル三叉戟に置き換わった。最初に双頭の鷲が登場したのは、現在ウクライナ領域に位置しているチェルニゴフ。その後ウラジーミルとモスクワにもあらわれた。「ロシア」という言葉の出現にともなって、国章に鷲が出現した。これは15世紀末、ロシアの地を統一した大公イヴァン3世の時代。モンゴル・タタールのくびきの後、新生ルーシの基礎を築いた人物である。

 コンスタンティノープルの陥落後、ロシアは唯一の独立した正教国となり、この時にロシアの民の古き標章であるライオンと鷲のどちらを採用するかでもめた。伝統的なロシアの標章はライオンである。中世初期、ヨーロッパの気候は現在よりもずっと暑かった。例えば、現在冬の気温がマイナス20度まで下がるウクライナ南部では、12世紀にライオンとヒョウが走っていた。ライオンを仕留めることは特に勇敢な行為と考えられ、限られた貴族や大公の狩猟となり、次第に高貴や勇気のシンボル的な動物になった。それでも鷲が統一国家の唯一の国章となり、ライオンを圧倒し、次第にロシアの唯一のシンボルになっていった。

 

鷲の変容 

インフォグラフィック:


ロシアの国旗と国章の変化

 それぞれの皇帝とともに鷲も変化した。プロイセンおよびオーストリアと関係が近かった時代には、厳格で幾何学的だった。政治体制が自由化された時代、鷲の羽ばたきは軽快になり、丸みを帯びた。1612年にポーランドの干渉者によってモスクワが占領されると、鷲の胸部にはカトリックの王のユリがあらわれた。他の時代には聖ゲオルギーや、ロマノフ家のシンボルであるグリフォンなどが加わった。

 変化したのは鷲の頭上の冠の数も同様である。これは国家のイデオロギーの変化と関係している。最初の2つの冠は政権と教権が平等であることを示していた。その後皇帝の政権が正教の総主教に勝利し、3つに増加。2つの冠を鷲がかぶり、政権と教権が平等であることを示しながら、3つ目のはるかに大きな冠がその上に位置している。これは教会から皇帝が戴冠した冠であった。この冠は正教会およびあらゆる政権組織の主、国家全体の長としての、皇帝の優位性を示していた。

 ロシアの紋章の伝統で、大きな国章と小さな国章にわけられた。大きな国章には鷲以外に、ロマノフ朝の紋章と、ロシアを構成するより重要な地の紋章がある。これは君主の称号に匹敵するものだった。鷲のまわりには、君主を長とする帝国および公国の標章があった。現代のイギリスでは、女王がイングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダ、オーストラリア、その他の国家の君主である。ロシアの皇帝は、同時にポーランド、グルジア、シベリアのツァーリであり、フィンランド大公国の大公であった。ロシアの国章の正式な標語は「神は我らと共に」であった。キリスト教国家であることを強調するために、ロマノフ朝の防衛能力と神の庇護を象徴する大天使ミハイルと大天使ガヴリイルが、双頭の鷲のわきに立っていた。

 

無冠から再び3つの冠に 

 1917年の2月革命後に、民主党政府が冠を除去。民主的に”皇位から追われた”鷲が、現在のロシア連邦の紙幣に描かれているのである。鷲の足からは君主政府のシンボルである王笏と権標も消えた。内戦時、反ボリシェヴィキ勢力は、自分たちの標章として鷲を取り戻した。冠は十字架に変えられたが、王笏と権標は鷲の足元に再びあらわれた。

 ソ連崩壊後、国章の選定を担当する特別委員会の3年に及ぶ作業の結果、双頭の鷲がロシアで復活。2月革命後の国章に似た、冠、王笏、権標のない国章が、ボリス・エリツィン大統領令によって1993年に承認された。

 そして帝政時代と同様、再び鷲は変化。ウラジーミル・プーチン大統領の政権強化はロシアの国章にも反映され、3つの冠、王笏、権標が復活した。

 遠い過去からロシアに飛来した双頭の鷲は、それを庇護する国家の政治の現実に沿うように、変化を続けるのである。

 

ウラジーミル・フタレフ、歴史学修士、全ロシア歴史・文化記念物保護連盟モスクワ支部部長

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