テリニャシュカは常に海の服であって、空の服ではなかった。だが青いベレー帽をかぶった空挺隊員(落下傘兵)もテリニャシュカを着るようになった。=ロシア通信
なぜブレトン・シャツがテリニャシュカに?
ロシア語でテリニクとはもともと肌着のことで、この愛称がテリニャシュカである。言葉自体に横しまのシャツという意味はないが、テリニャシュカは現在、ブレトン・シャツのことを意味している。ロシア人が初めてこのしま模様のシャツを見たのは、ロシア北西部のホルモゴルィとアルハンゲリスクにオランダの交易船が出入りしていた17世紀後半。オランダの海の男たちは、イギリス人と同様、マリン・ファッションの主なトレンド・セッター(流行創造人)であった。
ピョートル大帝が自ら創設したロシア海軍に、オランダの制服を丸ごと採用したのはこのためだ。ただしこの時、ブレトン・シャツはなかった。ブレトン・シャツがロシアに登場し始めたのは19世紀半ばの1840~1850年代。ロシアの交易船の船員がヨーロッパの港に寄港した際、物々交換したり、購入したりしていた。
一説によると、1868年に大公で海軍将官のコンスタンチン・ニコラエヴィチ・ロマノフが、スクリュー・フリゲート「ゲネラル・アドミラル」号の乗組員の受け入れを行った。この面接の時、候補の誰もがヨーロッパで購入したしま模様のシャツを着て来たという。乗組員がシャツの機能性と快適性を高く評価していたため、大公は1874年、シャツを皇帝令で正式に軍装に含めるよう、皇帝に要請した。
だがシャツがシンボルになったのはその後だ。日露戦争の後、動員解除された水兵はロシア各地の街にくりだし、「ヤブロチカ」風のダンスを踊り、旅順口でどう戦ったか、どのような危険を冒したかなどを話した。この大胆な水兵たちが着ていたのが、この時代に「海の魂」とも呼ばれていたテリニャシュカ。ロシアの団結の魂、「海の魂」を、国民が知ることになったのである。
なぜ空挺隊員にもテリニャシュカ?
テリニャシュカは常に海の服であって、空の服ではなかった。だが青いベレー帽をかぶった空挺隊員(落下傘兵)もテリニャシュカを着るようになった。落下傘兵が非公式にこれを着るようになったのは1959年。水域で降下するようになった時。空挺部隊でテリニャシュカの主な宣伝者となっていたのは、ヴァシリー・マルゲロフ司令官。これによって正式な制服になった。
青い横しまの入ったテリニャシュカの正式なプレミアは、1968年8月のプラハ。ソ連の空挺部隊はこれを着て、プラハの春終結に決定的な役割を果たした。マルゲロフ司令官が横しまに魅かれたのは、ソ連軍のエリートの間でイギリス映画「孤独の報酬」が大人気だったからとも言われている。この映画はイギリスのラグビー選手の厳しい世界を描いた物語。1963年に公開されたこの映画が、なぜか軍の幹部たちの間でカルト・ムービーとなり、多くが軍の下部組織としてラグビー・チームをつくろうと活動していた。
マルゲロフ司令官は空挺部隊の訓練プログラムにまでラグビーを導入した。映画の中にラグビーの試合の場面はそれほど多くないことから、相手チームの選手が主役にわざとケガを負わせたシーンが、マルゲロフ司令官に強い印象を与えたのではないかと考えられる。この選手のチームは、テリニャシュカに似たユニフォームを着ている。
横しまの意味とは?
横しまは実際よりも多くの兵士がいるような視覚的効果を生む。第二次世界大戦時に地上戦に参加したソ連の海兵隊員を、ナチスドイツ軍は「しま模様の悪魔」と呼んでいた。このあだ名はロシア軍の戦闘の質だけでなく、西ヨーロッパの昔の慣例にも関連している。ヨーロッパではしま模様の服が、何世紀にもわたって”呪われた人”の宿命であった。刑吏、政治犯、また社会で市民権を持っていない人などが着ることを義務付けられていた。横しまの服を着ていたソ連の海兵隊員は地上の場面で、ナチスドイツ軍の歩兵を震え上がらせた。
今日、それぞれのロシアの部隊には、独自の色のテリニャシュカがある。黒色のしまは海兵隊員と潜水艦隊員、明緑色のしまは国境警備隊員、海老茶色のしまは内務省国内軍特殊任務部隊員、蒼玉色のしまは大統領連隊員とロシア連邦保安庁(FSB)特殊任務部隊員、橙色のしまは非常事態省の職員など。
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