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武帝の寵姫の来世
「影が見たいって?倉庫にあったかな?」。「モスクワ子供影絵劇場」に行ったとき、この問いは私を当惑させたものだった。劇場の建物は当時大規模な工事の最中で、劇場はモスクワの工場地帯に移転していたのだった。私はもちろん、影をどうやって保存するんだ?と驚いた。しかしそれはできるのだ。人形を幕でさえぎり、光をあてると影が見える。
影絵芝居は、もともと東洋の芸術だ。紀元前200年の漢王朝時代の中国で生まれた。ある美しい伝説が存在する。漢の武帝は寵姫の死後悲しみにくれ、ロバの皮と織物で平べったい人形を作るよう命じたという。おそらく宗教的な理由から、皇帝はその亡くなった寵姫のために普通の人形を作ろうとは考えなかったのだが、彼女の影は絹の幕の向こうに甦った。
影絵芝居がヨーロッパに入ってきたのは1767年のことで、フランスの宣教師が中国から持ち込んだものだった。ロシアにこの芸術がもたらされたのは、ようやく19世紀の終わりのこと。
しっぽの総譜
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「私が演劇大学で学んでいたころ、影絵芝居は教えていませんでした」と女優ラリーサ・ヴォルコワさんは語る。「何もかもその場その場で学んでいかなければならなかったのです」
ヴォルコワさんは学校を卒業するとすぐに1991年から劇場で働き始めた。しかし、最初は無線技士の仕事をやったり、寸劇などに参加したりして、すぐには影絵芝居の舞台には出なかったという。その後、子供劇場でトラのしっぽを動かす役目を任された。
「『サーカス』という劇には、トラが必要でした」と彼女は語る。「トラの胴体の部分はひとりの俳優が動かしました。そしてあと二人は、前足と後ろ足を動かしました。私はずっとこう頼んでいました。
『しっぽの役をやらせて下さい!』
監督は言います。
『しっぽは難しいぞ』
『しっぽの何が難しいんですか?振るだけですよね』
『何だと、君は“しっぽの総譜”を知らないな?』
私は、ただぶらぶらと振れば良いと思っていました。しかし、そこで総譜を見せられたのです!もししっぽの動かし方を間違えて、しっぽがお尻にもぐったりしたらトラは台無しになって、まったく美しくなくなってしまうのです。トラには独自のキャラクターがあり、しっぽの振り方にも特徴があります。いらいらしてしっぽを振るときと、メスをみつけてしっぽを振るときでは違うのです。私はしっぽが大好きになり、しっぽとお話をしていたくらいです」
ラリーサさんはしっぽのことだけでなく、ほかの人形のことについても語ってくれた。「人形は、子供のようなもので、彼らに腹を立ててもしかたありません。ですから、アプローチの仕方を探さなければなりません。彼らと意思疎通が出来たら、その苦しみのかわりに何倍もが返ってくるのです」
影の王国のバルマレイ
モスクワ影絵劇場は1944年につくられた。1960年代には新しい芸術監督エミール・メイが着任し、あるひとつの技術、立体人形の技術を劇場にもたらした。そのコンビネーションで、コルネイ・チュコフスキーの『アイボリット先生』は1963年に記録を樹立した。
アイボリット(「あ、痛い」というロシア語から来ている)の物語は、ソ連では説明の必要がないほど有名なお話だ。この、人なつこい動物たちと一緒にアフリカへ熱病と猩紅熱の治療に行く博士の物語は、この時代の最も有名な物語のひとつで、さまざまに引用されもしている。そこに登場するとりわけ有名なアンチ・ヒーローが、小さい子供をまる飲みしたり、先々で博士の人道活動の邪魔をしたりするバルマレイだ。この影絵劇は、「児童文学の大御所」とも言うべきチュコフスキーのお墨付きを得た。当時チュコフスキーは82歳だった。何年か後に彼は亡くなったが、影絵劇のほうは今に至るまで半世紀以上もの間上演され続けている。
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この作品が最も古い、影絵劇の「おじいさん」だとすれば、今まだスタジオリハーサルにかかったばかりの「若い」影絵劇は、アーサー・コナン・ドイルの3つの小説を基にした『シャーロック・ホームズ』だろう。この作品は来シーズンから上演され始める。「我々の劇場は、子供と大人両方を惹き付けねばらないのです」と劇場支配人のマルガリータ・モデストワさんは語る。「今のところ、我々の劇場の観客は主に小さな子供たちで、10歳から12歳くらいになると劇場に来なくなってしまうのです。ですから、少し上の子供たち向けに、シャーロック・ホームズを採りあげることにしたのです」
揚陸艦のせむしの子馬
小さな子供たち向けの劇がある一方、海兵隊員に受けた劇もあった。北極圏内のコラ半島の不凍港(暖流のおかげで凍らない)、セヴェロモールスクへ劇場が旅公演を行ったことがある。そこには艦隊の基地が置かれている。俳優たちは排水量14000トンの大型揚陸艦「ミトロファン・モスカレンコ」号に泊まった。
「そこには戦車や装甲車の輸送のための戦車倉がありました」とラリーサ・ヴォルコワは回想する。「その時には戦車はおらず、旅公演の全期間中私たちはこの戦車倉で寝起きしました。岸壁に下りて子供たちのための影絵劇を上演し、そして船にもどるという生活でした。そこで、私たちは水兵たちの歓待への返礼として、何かしなければなりませんでした。しかし私たちには子供向けのレパートリーしかありません。私たちのレパートリーの中で最も“戦闘的な”話といえば、『せむしの子馬』でした。このピョートル・エルショーフの魔法物語は、農民とせむしの小さな馬の冒険物語です。船に海兵将校と上陸兵が集まり、私たちはこの小品を彼らに見せました。満員御礼でした。何人かの海兵たちは感動して、泣いている人さえいました」
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