16世紀に知ったタバコの味

タス通信

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 ロシアでは2014年より、列車、ホテル、カフェ、児童用遊技場が法律で全面禁煙となった。タバコはすでに400年以上も人気で、喫煙制限措置はこれが初めてではない。

タバコの到来

 ロシアに初めてタバコが到来したのはイワン雷帝の時代。1553年、嵐に巻き込まれたイギリスの交易船が、ロシアの沿岸部への着岸を余儀なくされた。さまざまな交易品に混じって船に積まれていたのがタバコ。初めてタバコを吸ったロシア人はこれを気に入り、かんだり、においをかいだり、アルコールに浸したりもしてみたが、好みにぴったりと合う珍品だった。

 この半世紀後、初のタバコ禁止令が出た。煙には悪魔のイメージがあったため、神に反する行為と考えられたのだ。喫煙した者は罰として、鼻孔や口を切られたが、それでも熱が冷めることはなく、喫煙は続いた。

 すべてが変わったのはピョートル1世の時代。常にパイプを口にくわえていた若き皇帝は、ロシア人に喫煙を教え、またロシアでの独占タバコ販売権(7年)を、当時としては破格の20万ポンドでイギリス人に与えて、大きな利益も得た。

 ピョートル1世はタバコから得た利益を陸軍や海軍、外国人専門家の雇用に費やし、ロシアの上級階級の間で喫煙を普及させた。当時はキセルの長い陶器のパイプが使用されていたが、輸入品は次第にロシア産へと変化。タバコの葉はアメリカやトルコから輸入された。

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淑女が喫煙なんて

 上流階級とは異なり、一般国民はタバコを吸わずにかんだり、においをかいだりしていた。公共の場での喫煙は禁じられていたが、こちらは禁じられていなかった。18世紀半ばまでに、木製のかぎタバコ入れ、エナメルや石で装飾されたかぎタバコ入れが、ロシアの日常生活の一部となった。

 かぎタバコは女帝エカチェリーナ2世も好んだ。左手のみを使ってタバコ入れからつまんでいた。右手は接吻の時に差しだし、命令、特にタバコ産業をロシアで発展させる帝令への署名に使うものだったため。この時代にアメリカ・タバコの栽培が始まり、ロシア初のタバコ栽培者は輸入および国内販売にかかる税金を免除された。タバコがこれによって安くなり、さらに広まったのは当然とも言える。19世紀までには家、居酒屋、タバコ専門店など、あらゆるところで喫煙が行われるようになった。1840年代、ジャーナリストはこう嘆いた。「今や上流社会の伊達男だけでなく、淑女までタバコを吸っている!何たることだ!淑女がタバコとは!」19世紀前半、医師が視力改善、記憶力向上、神経安定のために喫煙を指示していたこともあった。またこの時に、禁煙を希望する人のためのパッチや錠剤もあらわれていた。これらが新聞や雑誌で宣伝されていた一方で、新しい巻タバコなどの広告も新聞の一面を飾っていた。

 タバコを吸わず、喫煙者を庇護していなかったニコライ1世の時代、通り、広場、公共の場での喫煙は禁じられた。だが息子のアレクサンドル2世は逆に愛煙家で、父の禁止令を解き、タバコ、巻タバコ、葉巻の自由な販売を許可。巻タバコは中等学校生、将校、役人、時代先取りの女性のイメージにまでなった。購入したり、手や特別な機械を使って自分たちで巻いたりしていた。作家フョードル・ドストエフスキーは、原稿を書きながら、次々に巻タバコを吸っていたという。書斎机の上にはタバコの葉の入った箱と、フィルター用の筒と綿の入った箱が置かれていた。

 帝政ロシア末期の3代の皇帝、アレクサンドル2世、息子のアレクサンドル3世、孫のニコライ2世は、いずれも喫煙者だった。ロシアの「タバコの都」と言えば、サンクトペテルブルク。1913年まで多くの工場があり、国内生産量の80%をまかなっていた。

「ファシストに死を!」タバコ

 ロシア革命と内戦の後、工場の生産量は1913年と比べて2分の1に減少。闇市が繁栄した。浮浪児や第一次世界大戦で体のきかなくなった人などが巻タバコを販売。誰もが吸いたがっていたため、商売はとてももうかった。アナスタス・ミコヤン人民委員は1931年、こう述べた。「労働者、農民は仕事で悩み、『せめて一服でもさせてくれ』と願う。トラクター運転手、坑夫は喫煙なしでは厳しいと、喫煙したがる。技師は新たな建設場所から戻ってきて、『何でもするから巻タバコをくれ』と言う…禁煙中の人は、ただただタバコを必要とする」

タバコ「ベロモル」=タス通信

 タバコ生産は1930年代初めに始まった。1937年には巻タバコ「ベロモル」が生産されるようになった。このタバコはスターリン白海・バルト海運河(収容所の囚人によって主に建設された)にちなんで名づけられたもの。タバコの新たな繁栄は、喫煙者が政権に就いたことで勢いを増した。

 第二次世界大戦が勃発すると、タバコの生産が減少。だが重要は増えていた。質が低く、とても強い巻タバコが出回るようになり、市民はこの巻タバコを「眼つぶし」や「ファシストに死を」などと呼んでいた。

ソ連保健省は警告する

 ソ連人は職場でも、家でも、カフェでも、レストランでも、タバコを吸っていた。作家、芸術家、映画のスター、アニメのキャラクターも吸っていた。レオニード・ブレジネフ書記長自身も喫煙者だったが、あまり表だって吸ってはいなかった。ブレジネフ書記長は医師に喫煙を制限された時、タイマーつきのタバコケースを入手。ケースは45分置きに開くしかけになっていた。

 初の喫煙制限措置が講じられたのは1980年代。法律で16歳以下の子どもの喫煙を禁じ、建物に喫煙所を設け、タバコの箱には「保健省は喫煙があなたの健康に有害であることを警告する」との注意書きを加えた。

 1980年代後半(ペレストロイカ以降)は物不足が深刻だった。タバコを求める長い行列ができ、市場では吸殻が売られた。再び闇市が繁栄を迎え、「マルボロ」や「ケント」が店頭ではなく、駅や外国人が滞在するホテルのトイレなどで異常な高値で取引されるようになった。

 ただしこれはそれほど長く続かなかった。1990年代初めにタバコの工場が世界のタバコ企業に買収され、不足はすぐに解消。以降ロシアでは、ライセンスにもとづいて国内で生産される世界のブランドを、自由に購入できるようになった。

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