エレーナ・ポチョートヴァ撮影
1900年の凱旋
3月にオープンしたばかりのこの博物館は、エヴゲニー・トロステンツォフ氏の個人コレクションがもととなっている。オープン前の3年間、コレクションはロシア現代史博物館に展示されていた。
ここに来ると、まるで昔にさかのぼり、ロシア皇室御用達の業者になろうと争う、19世紀の菓子職人の中にまぎれこんでしまったかのような錯覚さえ覚える。1900年パリ万博(パリとしては史上最大規模)で、ロシアの菓子職人は国際的に認知された。開催期間の7ヶ月間に訪れた人の数は5000万人。これは19世紀に別れを告げ、文明の発達を喜びながら20世紀に突入しようとする特別な時だった。
ガイドのエレーナ・ペガイ氏はこう説明する。「ロシアから万博に参加した菓子業者はエイネムとジョルジュ・ボルマン。エイネムはティー・クッキーと多種アソートで、ジョルジュ・ボルマンはミルク・チョコレートで、それぞれ賞を獲得し、凱旋帰国した」。この2業者はマーケティング企画を最初に導入しながら、20世紀のトレンドの多くを決めた。このマーケティング企画は今日も世界で活用されている。
ロシア式ブランディング
エイネムは優美な箱に菓子を詰めた。これによって価格はあがってしまったが、その代わりに、贈り物としての価値が高まった。包装箱の外側は色彩豊かに装飾され、内側にはビロードや革が使われた。もはや芸術作品とも言える。女性たちは中身を食べた後、箱を書類箱として使用。これが驚くほどの宣伝効果をもたらした。「家の中で際立つ優雅な箱に記された一ブランド名を、主婦は常に目にする。これはつまり、その主婦が常連客になることを意味している」とペガイ氏。
ガラスケースの中には、オルゴールも置いてある。贅沢なオルゴールの中にチョコレートを入れたチョコレート・セットが、モスクワで販売されていた。このセットは120~200ルーブルと高額。当時の半年分の平均給与に相当する。
チョコの卵から何がでてくる
子どもが菓子を好きなのは、その味だけでなく、恐竜や車などのおまけが気に入っているからというのもある。おまけはコレクション欲をそそる。この”ずるい”マーケティング方法で、販売はのびる。ジョルジュ・ボルマンは19世紀、「小麦粉」、「砂糖」、「バニラ」、「シナモン」などと書かれた容器に菓子を入れて販売することを、最初に考案した。主婦はこのキッチン用の入れ物シリーズを完全にそろえるため、われ先にと街に飛びだしていた。
「ジョルジュ・ボルマンは、他に2つの天才的なアイデアを導入した。1つ目は世界初のチョコレート・イースター・エッグの販売。中には十字架や美しいチョコのフィギュアが入っていた。これは現代の『キンダー・サプライズ』の原型。アイデアはわかりやすかった。これはロシアのマトリョーシカだから。でもボルマン以前に、誰もこれを思いつかなかった」とペガイ氏。
ボルマンの2つ目のアイデアとは、板チョコの自動販売機。1枚15コペイカだった。この15年後、アメリカ人はガムの自動販売機をつくるようになった。
一流芸術家の包装紙
1920年代、菓子製造の新時代が到来した。最初はソ連の工場で、最高指導者の肖像画の描かれた包装紙が印刷されていたが、しばらくして民衆がそれをジョークにするようになった。レーニンの肖像画がゴミ箱に捨てられていたからだ。その後、より中間的な絵が描かれるようになった。
そのデザインを担当したのは一流芸術家。アレクサンドル・ロドチェンコは構成主義的な包装紙を描き、未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは包装紙用の宣伝詩を書いた。ロシア・チョコレート史博物館には、このような包装紙のコレクションが多数展示されている。ペガイ氏によると、その一部のオークション価格は、1500ユーロ(約20万円)を超えるという…
子どもたちは展示品を見た後、特別な昔風のチョコレート工房に行きたがる。ここではチョコレート教室が開かれている。来館者なら誰でも、自分の板チョコをつくることが可能だ。
博物館所在地
Triumfal'naya Ploschad', Moscow(入口のある場所は、2-3, 1-st Brestskaya)、地下鉄「マヤコフスキー」
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