劇的なクリミア史

ナチスドイツは1941年秋にクリミアの大部分を占拠したものの、戦いは翌年の夏まで続いた。=ロシア通信

ナチスドイツは1941年秋にクリミアの大部分を占拠したものの、戦いは翌年の夏まで続いた。=ロシア通信

クリミア半島の長き歴史には劇的なできごとも多い。ロシアNOWが5大歴史的事件を特集する。

1. 腺ペストの輸出

 フェオドシアのカッファで1346年、クマネズミが船に侵入。クリミアからヨーロッパに腺ペストを持ちこんだ。

 クリミアで腺ペストが発生したわけではない。14世紀の大流行はゴビ砂漠の緑地で始まり、インドと中国に最初に広がった。その後、シルクロードを経て、隊商によって西側に持ちこまれた(当時黒海沿岸には、ジェノヴァの居留地が点在していた)。クリミアで”生物兵器”が使われなければ、ヨーロッパには到達しなかっただろう。カッファを包囲したモンゴル人は、腺ペストで死亡した人の遺体を、カタパルトを使って街の中に投げ込んでいた。その後は1匹のクマネズミによって感染が拡大。ジェノヴァの船は地中海の港に寄港し、大流行が始まった。この“グローバリゼーション”のつけでヨーロッパで死亡した人の数は、当時の人口の3分の1にあたる2000~2500万人だった。

 

2. ポチョムキンの伝説

 クリミア編入はロシアにとって手慣れた作業だ。18世紀、エカチェリーナ2世とそのパートナーであるポチョムキン公が、これを実施。黒海北側のクリミアのステップを編入し、ロシア南部を悩ませていたタタール人を鎮めた。編入にはクリミア・ハン国も含まれた。ポチョムキン公は新たな領地の発展を全権委任され、エカチェリーナ2世は1787年、その仕事ぶりを見学しに来た。

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クリミアの邸宅

 エカチェリーナ2世のクリミア往復の旅は非常に豪華かつ大規模なもので、ロシア帝国がどのように新しい土地を整備しているかを示すべく、オーストリアのヨーゼフ2世や外国大使一行も招待した。その四半世紀後の解説には、ポチョムキン公がエカチェリーナ2世と外国の要人をだまそうと、「幸福」に見せかけた僻村をつくったと書かれている。実際には、ポチョムキン公は村などつくっておらず、その必要もなかった。なにしろ、彼のもとで、タヴリダやノヴォロシヤは繁栄した地域に変貌したのだから。彼は逆宣伝の犠牲になっただけだ。

 

3. 軽騎兵旅団の突撃

 イギリスの第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルは1854年10月25日、600人の騎兵を引き連れて、バラクラヴァ郊外のロシアの砲台を襲撃。自爆的な突撃によって軽騎兵旅団の半数を失った。テニンソンやキプリングはこの攻撃を称賛したが、フランスのピエール・ボスケ陸軍元帥は、「素晴らしいけどこれは戦いじゃない。理性喪失である」と述べた。

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クリミアの軍需産業

 軽騎兵旅団に対する応戦は、クリミア戦争(1853~1856)において、もっとも効果的なロシア軍の成功であったし、クリミアはこれによって世界史に組み込まれた。ロシア軍は堅忍不抜の精神で活躍したものの、対ヨーロッパ戦(フランス、イギリス、サルデーニャ、オスマン帝国が参戦し、オーストリアとプロセインが支援)で勝利することはできなかったし、老朽化した武器と軍幹部の汚職も良い影響をおよぼさなかった。だがバラクラヴァの戦いがなかったら、セヴァストポリの防衛はもっとひどかった可能性がある。またクリミア戦争のおかげで、世界の文化の分野でバラクラヴァ(目出し帽)とカーディガン(伯爵自身の発明品)が認識されるようになったというのもある。イギリス人はセヴァストポリ郊外で寒さにふるえていたのだ。

 

4. 石切り場のガス

 第二次世界大戦の主な謎は、なぜナチスドイツが化学兵器を使わなかったのかということだ。戦闘ガスを使ったのは、クリミアでの1回きり。

 ナチスドイツは1941年秋にクリミアの大部分を占拠したものの、戦いは翌年の夏まで続いた。セヴァストポリ襲撃の際、ナチスドイツは第二次世界大戦最大の武器である80cm列車砲「ドーラ」を使用しなければならなかった。赤軍部隊はクリミアから東部へと後退したが、それだけでは終わらず、離れたクリミア戦線の兵士1万人以上が、アジムシュカイ村の40クロメートルの石切り場に身を隠した。ナチスドイツ軍は中に突中することはできなかったが、トンネルを破壊し、井戸に砂を入れ、これでも足りなかったために、戦闘用の有毒物質を注入。アジムシュカイ石切り場で生き残ったのはわずか48人だった。

 

5. 追放

 クリミアには1941年、20万人のタタール人が暮らしていたが、1944年7月までにスターリン政権による追放で、誰もいなくなった。そのうちの大部分は1989年までウズベキスタンで暮らしていたが、移住者のうち15%から50%は、ウズベキスタンへの道中、または移住命令がなされた水のないステップで暮らそうとして死亡した。

 追放の理由は敵に協力したことへの罰。タタール人がどれほどの規模で、またどのようにナチスドイツに協力していたかについては、いまだに議論が続いているが、多くの者が、反パルチザン部隊の案内人として働いたり、警察に登録したり、はてはクリミアのSSの武装集団に加わったりしながら、ナチスドイツを支援していたことに疑いの余地はない。

 しかしタタール人には、ソ連政府を嫌う理由があった。タタール人は家畜、ブドウ園、タバコ栽培地を失い、1930年代には民族の知識層が迫害され、他の宗教と同様、政府にはイスラム教に対する理解もなかった。昔の恨みで新たな戦いをする意味があったのかについては、賛否両論あろうが、少なくともクリミア・タタール人が戦中にヒトラーを支持した者を選んだ代償は高くついた。