19世紀までには、スパイスケーキは出産から結婚式まで、お祝いに欠かせないものとなった。=ロシア通信撮影
ロシアで最も古いお菓子
現代のスパイスケーキの原型(プリャーニキの名はプリャーニィ (「スパイシー」の意)に由来する)の起源は、いくつかの情報源によると9世紀までさかのぼるが、もともとはスパイスは使わず、蜂蜜だけが入っていた。そして「はちみつケーキ」、あるいはスラヴの雷神ペルーンのシンボルである丸い形状から、「太陽の神」としても知られていた。
彫刻が施された木製押し型が考古学者により発見されているが、彼らは、これらは中世に蜂蜜のケーキを押すために使用されたものであると推測した。
クローブやカルダモンなどのスパイスは12世紀から13世紀にかけてロシアに輸入されるようになり、蜂蜜ケーキに加えられるようになった。スパイスはケーキに独特の味を与え、それがあまりに上品であったため、17世紀にはプリャーニキはツァーリにとってさえも定番のメニュー品目になった。
19世紀までには、スパイスケーキは出産から結婚式まで、お祝いに欠かせないものとなった。新婚夫婦は、結婚式の数日後に、花嫁の両親への贈り物としてお祝いのスパイスケーキを持参することになっていた。
プリャーニキ作りは尊敬に値する職人芸へと発展した。プリャーニチニキ(スパイスケーキ職人)たちは、パン職人の中でも際立ったエリート集団としてみなされた。
最もよく知られているスパイスケーキはペチャトニエ(押し型を当てたもの)である。押し型を当てたスパイスケーキは木製の押し型を使って作られたもので、様々な絵柄や文字をあしらった精巧な装飾の表面が特徴だ。
スパイスケーキで有名な都市
ロシアの「スパイスケーキの首都」は、モスクワから約200キロ南に位置する、トゥーラである。スパイスケーキ作りの歴史を主に扱う地元のトゥーラ・プリャーニキ博物館館長、ナデジダ・トラチュクさんによると、銃職人の街としても有名だったこの都市でスパイスケーキ産業がきわめて繁栄したのには特定の理由があったという。
「トゥーラは常に主要な武器工場が所在する場所でした」と彼女はロシアNOWに対して語った。「そして銃職人たちは、余暇にスパイスケーキの木製押し型を作るのに必要な技術を備えていました」
「徐々に、これらの押し型はますます精巧になっていき、その結果、トゥーラ産のスパイスケーキはロシアの他の地域で作られたあらゆるスパイスケーキの中でも際立つようになったのです」とトラチュク館長は説明した。続けて、スパイスケーキはロシアのアコーディオンやサモワールと同様に、最終的にトゥーラのシンボルとなったことを付け加えた。
地元の伝説によると、あるロシアの公は、彼がトゥーラで味わったものと同じ味のスパイスケーキを自分の町のパン職人に焼かせようとしたが、不満足な結果しか得られなかったという。トゥーラから水と小麦粉を取り寄せさえしたのに、うまくいかなかった。そのときある賢明なパン職人は、欠けている材料はトゥーラの空気であると提案した。それはさすがに公でも提供できないものだった。
ロシア通信撮影
スラヴ時代からソ連時代を生き延びたスパイスケーキ
スパイスケーキ作りの伝統芸は、ボリシェビキ革命と産業化の時代を生き延びたが、その間スパイスケーキは、他の種類のパン製造がそうであったように、製菓工場で大量生産されるようになった。
オリジナルのレシピで使われた蜂蜜とは対照的に、今日のほとんどのスパイスケーキは、層の間にジャムやコンデンスミルクが含まれたものである。トゥーラのパン職人たちは、自分たちはオリジナルのレシピに従っていると主張し、味見するとほとんど人々はそのすばらしさに驚くのだが、現代のスパイスケーキは2世紀前の味からはかけ離れているという。
「今日のプリャーニキは、1世紀前のものとは異なります」とトラチュクさんは言う。「水、蜂蜜、そしてバターの質が違いますが、これらの材料が非常に重要なのです」
「伝統的なレシピに従ったとしても、私たちが得られる結果は、昔のスパイスケーキからはほど遠いものになります。元のスパイスケーキはすべて蜂蜜を使って作られていましたが、それは、今日私たちが使っている砂糖は、その当時まだ開発されていなかったからなのです。現代のスパイスケーキは砂糖と蜂蜜を混ぜ合わせて使用しています」
スパイスケーキのデザインはかなり精巧であることで有名だが、時々、全体のスパイスケーキがかなり型破りの用途に使用されることもある。2011年12月の下院選挙の際、トゥーラではスパイスケーキで作られた投票箱が使用された。このスパイスケーキの投票箱は、同市で選挙の監視にあたった中央選挙管理委員会のウラジーミル・チューロフ委員長に手渡された。
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