演劇は国境を越えて

佐野碩

佐野碩

2009年、岩波書店から『自由人 佐野碩の生涯』(岡村春彦著)という評伝が出版され、佐野碩再評価の機運が一気に高まった。佐野碩とは、1905年に中国の天津で生まれ、1966年にメキシコで没した類まれなる国際的演劇人だ。

 日本では「インターナショナル」の訳詞者、あるいは後藤新平の孫、共産党幹部であった佐野学の甥として知られる。しかし彼の人生は、そうした紹介には到底収まらない、あまりにダイナミックで波乱に満ちたものだった。幼少期に関節炎を患った影響で、生涯右足が曲がらなかった佐野碩は、その足を振り回しながら、卓越した語学力で様々な言葉を自在に操り、各国で自らの道を切り開いていった。名家に生まれながらも、政治的理由から日本国内にいられなくなりロシアを経由して、メキシコに亡命。その後、二度と祖国に戻ることなく没した彼の人生は、「時代に翻弄された」という容易い表現を拒み、自らの行動力で「いかに時代を生き抜くか」を示している。

 佐野碩に関しては、上述の岡村氏の著作や藤田富士男著『ビバ! エル・テアトロ! 炎の演出家佐野碩の生涯』オリジン出版センター、1989年に詳しい。そのため、ここではロシアでの活動を中心に紹介したい。

 

日本からモスクワへ

『自由人 佐野碩の生涯』(岡村春彦著)

 浦和高校時代から演劇に関わり始めた佐野碩は、その後東京帝国大学法学部に入学し、高校時代の友人たちを中心に自前の劇団MNZ(ムンズ)を創設する。彼らはマニュフェストのなかでこう言っている。「生活だ! 生活力だ! 時代精神だ! プロレタリアの為に戦ふ事だ! そして我々の思想だ! 階級闘争時代に代わる、無階級時代を出現させる事だ!」こうした活動は、同時代への鋭敏な反応と新しい世界への希望を携えた日本の若者たちが、急激に変化する社会情勢を受けて左翼運動に傾斜していく流れに呼応するものだった。さらに東京帝大時代には、林房雄や中野重治らと知り合い、プロレタリア文化運動に積極的に関わって行く。久板栄二郎、村山知義、千田是也らとともに「前衛座」の同人、「プロレタリア劇場」や「左翼劇場」の創設、また日本プロレタリア劇場同盟の書記長就任、とこうした運動の中心となって佐野は活動した。

 しかし、1931年に「共産党シンパ事件」に巻き込まれ、治安維持法違反の容疑で逮捕される。その後釈放されるものの、活動を自粛せざるを得なくなり、偽装転向に見せかけた留学を理由に、国際労働者演劇同盟(IATB)の日本代表として、出国。結果として、これ以降、佐野は二度と日本の土を踏むことはなかった。

 

モスクワでの佐野碩

 アメリカを経由してドイツに入国した佐野は、その後1932年10月末に国際革命演劇同盟(IRTB)の日本代表として、本格的にロシアに入る。IRTBでは評議員、書記局員らに選出され、また雑誌『国際演劇』の編集委員となった。1933年には土方与志も妻と共にロシアに入国し、佐野と土方は、日本の演劇状況や社会主義運動の実情を伝えるために積極的に筆をふるった。

 1933年末、外国人演劇人たちに対して、モスクワの劇場で働く許可がおりた。当初、佐野碩はスタニスラフスキーのモスクワ芸術座での研修を希望した。しかし、スタニスラフスキー自身から、演出であればメイエルホリドのもとで学ぶのが良いと勧められ、最終的にかねてより憧れていた前衛演劇の旗手であるメイエルホリドの劇場に入った。メイエルホリド劇場付属の演劇研究工房の研究員となり、モスクワの東部のカールマルクス通りにあてがわれた住居から、中心地クレムリンの側にあったメイエルホリド劇場に彼は毎日通った。佐野はそこで、俳優の舞台上での動きの記録や、観客の反応調査に携わっている。古びた劇場の一階席と二階席の間に極めて小さな窪んだ空間があって、上演中はその穴に潜り込み、工房の同僚たちと身体を寄せ合いながらブロックノートに記録をとり続けた。その他にも、佐野は日本の歌舞伎とメイエルホリドの演劇の比較研究や、当時予定されていたメイエルホリドの演劇論集の日本語訳を出版する予定でいたようだ。

フセヴォロド・メイエルホリド=タス通信撮影

 メイエルホリド劇場で充実した日々を送っていた佐野だったが、30年代後半に入ると、ソ連ではスターリンによる粛正の嵐が吹き荒れ、その不安は佐野碩にも覆い被さった。そして1937年8月初頭、佐野は、土方とともにソ連政府から72時間以内の国外退去を言い渡される。遠く離れた日本人の妻と別れ、ロシア人女性との間に子をもうけて、ロシアに定住を決意していた佐野にとって、あまりに急な宣告だった。そのまま帰国すれば逮捕されることは目に見えていた。なんとか出国期限の延長と行き先の変更を願い出て、佐野碩はおよそ1週間の猶予とパリ行きの旅券を手に入れる。しかし、ロシア人である妻と娘は出国を禁じられ、佐野は単身でロシアを離れることになった。スターリンの粛正は凄まじく、佐野碩の国外退去の3年後の1940年には、彼の師であるメイエルホリドが粛正された。

 

メキシコへの亡命

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愛と友情の音と色

 その後、佐野碩はパリ、アメリカを経由して、メキシコに亡命した。ロシアを追われて以来、本来の自分の仕事であるはずの演劇がまったくできず、困苦に耐えていた佐野にとって、メキシコは革命的な演劇活動を存分に行える国として応えてくれた。もちろん、メキシコでの活動は佐野が想定していたより遥かに困難なものだった。それでも、自分を受け入れてくれるという感覚は、佐野にとって何にも代え難いものだったのだろう。ロシアで培った演劇の知識や経験をもとに、佐野碩はメキシコ演劇を大きく変貌させた。佐野碩がメキシコにもたらしたもの、それは体系化された演劇知というメキシコ演劇が近代化する上で必要不可欠な要素であった。

 現在、メキシコには佐野の教えを受けた著名な演劇人が数多くいて、またセキサノホールと彼の名前を冠した劇場が残っている。

 残念ながら、メキシコで知られているほど、日本では佐野碩の名前は関心を持たれていない。ロシアにおいても、伝説的な演出家メイエルホリドが日本演劇の歌舞伎に強い関心を示していたことは良く知られているが、そのメイエルホリドのもとに日本人がいたことを知る人はほとんどいない。

同僚グラトコフの回想

「スタニスラフスキー生誕100年に合わせ、ロシア各紙にメキシコ首都メヒコの劇場を指揮する日本人演出家佐野碩の言葉が報じられた。私はこの寡黙で控えめで緻密な、右足を引きずる、大きなフレームの眼鏡をかけた日本人をよく覚えている。
  <中略> 国際労働演劇同盟(1938年に解散した)の仕事でモスクワに来た佐野碩は、モスクワ芸術座の芝居に赴き、魅了されモスクワに留まることを決めた。碩はスタニスラフスキーのところに行き、彼のもとで学びたい旨を伝えた。<中略>「それなら、まずはメイエルホリドのところに行き、彼のもとで学び、それから私のところに来なさい」とスタニスラフスキーは答えた。碩はメイエルホリドのところへ行った。<中略> きっちりすべての稽古に顔を出した。徐々に彼は助手の仕事に参加し始め、客席の反応調査に積極的に関わり、メモを残した。
 国立メイエルホリド劇場閉鎖の後、彼は少しだけスタニスラフスキーのスタジオに従事し、その後モスクワから消えた。彼の失踪に関しては諸説ある。そのなかで望ましいのは、確信があるわけではないが、彼は義勇兵として内戦が勃発していたスペインに発ったというものだ。いずれにせよ、寡黙で物静かな眼鏡をかけた佐野碩に関しては、それ以上私たちは噂を聞かなかった。
 <中略> この驚くべき日本人は、スタニスラフスキーの教え子であり、メイエルホリドの教え子だった。彼の人生に関しては小説を書くこともできるだろう。残念ながら、我々は彼が創設した劇場について知らないが、彼の運命において二人のロシア演劇の天才の影響が絡み合い、そして佐野碩自身、四半世紀前モスクワで学んでいたことを思い出しながら、自らをスタニスラフスキーとメイエルホリドの弟子だと考えていたのだ」(А. Гладков. Мейерхольд. Т.2. М., 1990より抜粋)