バルドたちへのオマージュ

2月11日、ロンドンのサウスバンク・センターにおいて、ロシア・イギリス交流年の枠内で、有名なロシアのシンガーソングライターであるタチヤナとセルゲイのニキーチン夫妻のコンサートが行われた。「ヴィヴァルディの音楽に合わせて」という彼らの代表的な歌と同名のタイトルが付けられたそのコンサートは、会社「マリアの子供たち(マリアズ・チルドレン)」の傘下にある「ペリカン」センターのチャリティープログラムの後押しで、同センターの後援者の一人であったロシアの検索エンジン「ヤンデックス」の共同創始者イリヤ・セガロヴィチを追悼して、催された。

ロシアのシンガーソングライターは学者たち

 「バルド」もしくは自作自演の歌がソ連にお目見えしたのは、1950年代初めのこと。これは、ロシア特有のものではなく、ギターを弾きながら自作の歌を歌う者たちは、当時、多くの国に現われた。ロシアの「バルド(бард)」は、ちょうど、東西ドイツの「リーデルマヘル(Liedermacher)」、イタリアやラテンアメリカの「カンタウトーレ(cantautor)」、フランスの「オトゥール・コンポズィトゥリサンテルプレート(auteur-compositeur-interprète)」、米国の「シンガーソングライター(singer-songwriter)」にあたる。

 ソ連では、この新しいジャンルは、学生たちといっても文学部の学生というよりはむしろ生物学や物理学や歴史学を専攻する若者たちによって、創り出された。初期の「バルド」の歌のテーマとなったのは、人生の浪漫そして美しさだった。ソ連社会の困難な状況のなかでは見つけにくいものの、若い世代にとってはなくてはならないもの。誰よりもその価値を表現したのが、200を超える歌を作った詩人ブラート・オクジャワで、それらの歌は、最初はソ連のインテリの間に、後には国外のロシア語系住民の間に、テープレコーダーを通して流布していった。オクジャワの最初のレコードは、1968年にパリでリリースされ、ソ連で発売されるようになったのは、1970年代半ば以降のこと。

「アルバート通りの歌」 ブラート・オクジャワ=ビデオ:YouTube


次第に体制批判を強める

 自作自演の歌は、またたくまに学生や旅人たちの心を捉え、ソ連のインテリたちの日常の文化の一部となり、遠足へ出かけてみんなで焚火を囲むときにはいつも歌われていた。その人気は絶大で、国内のさまざまな都市にアマチュアソング・クラブ(КСП)なるものさえ現われたが、それらの発足には、学生の知的傾向を監視する目的で、国家保安委員会(КГБKGB)も係わっていた。当局からすれば、監視すべきものがあったわけだ。

 1960年代には、体制を批判する歌の作者たちが登場した。詩人で歌手のアレクサンドル・ガーリチ(本姓ギンズブルグ)は、1950年代に、ソ連の演劇界に欠かせない才能ある劇作家として活動を開始していたが、後に、歌を作りはじめ、それらの歌は、次第に政治的に辛辣なものとなり、やがて、彼は、コンサートの開催や詩の歌集への掲載やレコードの録音を禁じられ、メディアの中傷攻撃に晒されるようになった。こうして、ソ連の文学界の寵児だったガーリチは、一転して反体制活動家の烙印を捺され、1974年、人文セミナーに参加するためノルウェーへ出かけた際にソ連国籍を剥奪されて亡命の身となり、その数年後に他界したが、ソ連では、さらに長いこと彼の詩は禁じられていた。もう一人のバルドで人権擁護活動家のユーリー・キムは、1985年まで匿名で作品を発表しており、国家保安委員会(КГБKGB)の報告書では、この詩人に「ギタリスト」というコードネームが付けられていた。彼の詩は、ソ連の現実を赤裸々に風刺するもので、いくつかの歌では、ソ連の反体制活動家、裁判所、捜索といったテーマが真正面から取り上げられていた。

 

世界の潮流と連動

 当時、そうした状況は、ほかの国々でもみられ、自作自演の歌の人気は、196070年代の若者の社会政治運動の世界的な高まりとリンクしていた。ソ連その他の「社会主義陣営」の国々では、そうした歌は、テープレコーダーでこっそり聴かれ、内輪のコンサートでひそかに演奏されていた。たとえば、チリでは、1973年の軍事クーデターの後、「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」の公衆の面前での演奏は禁止され、詩人の多くは亡命を余儀なくされ、最も有名な詩人ヴィクトル・ハラは、殺害された。米国、ドイツ、イタリア、フランスでは、自作自演の歌のコンサートやレコーディングは、合法とされていたが、テレビやラジオは、その社会的内容を危惧して長いこと放送しなかった。

 ペレストロイカ後のロシアでは、自作自演の歌が穏やかな発展を遂げ、「歌う詩人」たちの数がにわかに増え、彼らがコンサートを開いたりレコーディングをしたりラジオやテレビで歌ったりフェスティバルを催したりするのを妨げる者もいなくなった。最も有名なフェスティバルは、溺れた子供たちを救おうとシベリアの川へ飛び込んで帰らぬ人となった学生ヴァレリー・グルーシンの名を冠するもので、トリヤッチ市の郊外で催されるその歌の祭典には、ロシア内外から大勢の人が集う。

 

ヴィソーツキーはじめ今も衰えぬ人気

 旧世代の有名なバルドたちの多くは、すでに泉下の人となったが、彼らの歌の人気は、今も衰えていない。このジャンルの草分けの一人ユーリー・ヴィーズボルは、300曲以上を遺して若くして天に召された。冶金学者のヴィクトル・ベルコフスキーは、教育と研究の傍ら、終生、さまざまな詩人の詩に曲を付け、しかも、バルドの歌ばかりでなく映画や演劇のための音楽も手がけた。バルドのエフゲニー・クリャーチキンは、ヨシフ・ブロツキーの詩に曲を付けることで、ブロツキー自身には発表の場がまったく奪われていたその時代に、彼の詩の世界へ多くの読者を導いた。ウラジーミル・ヴィソーツキーも、自分のことをバルドとはみなしていなかったものの、バルドの一人に数えられることがある。ほかのバルドと異なり、彼は、押しも押されもせぬプロの俳優であり、ソ連で最も人気のある自作自演の魂の歌い手だった。2010年に全ロシア世論調査センターが実施した20世紀を代表する人物を訊ねるリサーチによれば、ヴィソーツキーは、人類初の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンに次いで二位にランクされている。

ウラジーミル・ヴィソーツキー=ビデオ:YouTube

 

「モスクワは涙を信じない」

 ユーリー・キムは、今もコンサートにいそしんでおり、地球物理学者でバルドのアレクサンドル・ゴロドニツキーも、創作活動を続けており、バルドというジャンルの普及に努め、それをテーマとするテレビのドキュメンタリーのシリーズ番組を制作した。そして、タチヤナとセルゲイのニキーチン夫妻も、公演活動を続けている。ヴィクトル・ベルコフスキーと共に作られて今回のロンドンのコンサートのタイトルにもなった彼らの歌「ヴィヴァルディの音楽に合わせて」は、当時、ポール・モーリアを魅了し、このフランスの指揮者は、その歌のインストルメンタル・ヴァージョンをレコーディングしている。ちなみに、オスカー賞を受賞した数少ないロシア映画の一つ「モスクワは涙を信じない」の主題歌「アレクサンドラ」は、セルゲイが曲を作り、タチヤナとともに夫婦で歌っている。

ビデオ:YouTube