ルビャンカ

1958年、以前には噴水があったルビャンカ広場の中心に、VCHKの創建者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が出現した。この銅像は長年にわたり、 1991年にソ連政権が崩壊するまで、弾圧システムの主要なシンボルになった。=ウラジーミル・フェドレンコ撮影/ロシア通信

1958年、以前には噴水があったルビャンカ広場の中心に、VCHKの創建者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が出現した。この銅像は長年にわたり、 1991年にソ連政権が崩壊するまで、弾圧システムの主要なシンボルになった。=ウラジーミル・フェドレンコ撮影/ロシア通信

「ルビャンカ」という言葉は、「グラーグ(矯正労働収容所総管理局)」と同様に、普通名詞の語になった。モスクワの都心にあるこのルビャンカ広場に、かつてVCHK(反革命・サボタージュ・投機取締全露非常委員会)、OGPU(合同国家政治保安部)、NKVD(内部人民委員部)、KGB(国家保安委員会)、FSB(連邦保安庁)があった。組織の略称は変わっても本質は変わらない。

 女性とは名ばかり 

 18世紀のこと、ルビャンカに女地主サルティコーワが住みついた。世界の歴史で最も残忍な大量殺人女性の1人だ。近くに秘密官房があった。もしそこで国家の必要により人々が拷問されたのだとしたら、サルティコーワ(人々の間では「サルティチーハ」というあだ名がつけられた)の屋敷では、彼女の自己満足のために農奴が苦しめられた。

  ダリヤ・サルティコーワは世襲貴族の家柄で、信心深い女性だったが、することは公然たるサディズムだった。ある時期までの彼女は、完全に責任能力のある女性だと思われていた。だが夫が死んだとき、すべてが変わった。サルティコーワは毎日のように女中を薪で殴りつけるようになった。その後、鞭打ちを命じて、 時には死に至らせることもあった。次第に味をしめて、拷問に改良を加えていった。犠牲者の頭髪を焼き、髪を根こそぎ引き抜いたり、熱湯を浴びせかけること もあった。

 公式調査では、犠牲者は75名とされ、その大半はサルティチーハによって苦しめられた婦女子だった。だがその数はもっと多いかもしれない。

18世紀のこと、ルビャンカに女地主サルティコーワが住みついた。世界の歴史で最も残忍な大量殺人女性の1人だ。=画像:クルドゥーモフ
 

 ついに農民らは彼女に対する苦情を警察とモスクワ県知事に訴え出た。だが彼女は宮廷にコネがあった。処罰逃れを手助けする友人や親族の有力者がおり、賄賂も効力を発揮した。ようやく数年後に、苦情を女帝エカテリーナ2世に直接伝えることに成功した。

 女帝は本気で怒り、公開裁判を行った。証明できた犠牲者はわずか38名だったが、判決にはそれで十分だった。この女地主は貴族の称号を剥奪され、修道院 の、光も射さない暗い地下室への終身幽閉とされた。だが非常に興味深いことに、彼女は男性だと発表された。彼女は女性の名に値しない!と女帝は考えたのだ。彼女は11年をこの地下室で過ごし、その後、離れに移された。物見高い人々の群れが離れの窓の近くに押し寄せたが、サルティチーハは群衆に怒鳴り、唾 を吐きかけた。彼女は33年幽閉生活を送った。

 

恐怖のミュージアム 

  革命後、ルビャンカがソ連の「秘密警察」であるVCHK(反革命・サボタージュ・投機取締全露非常委員会)の拠点になったとき、ルビャンカは、モスクワの いくつかの賑やかな通りが合流する活気にみちた広場だった。広場の中心には大きな噴水。御者たちは噴水の脇に馬を止め、一休みして喉を潤し、数多くあった ルビャンカの居酒屋のどこかへ行き、やはりのどを潤した。紅茶か、もう少し度数の強い飲み物で。モスクワの住民が馬車でどこかへ行く用ができたとき、行先 がモスクワ市内でも別の県でも、御者を探しにルビャンカへ行った。

 VCHKが入った建物は、以前は保険会社「ロシア」が所有していた。その会社は建物の中の住居や商業スペースを賃貸で貸していた。のちにボリシェビキが私企業の保険会社をすべて閉鎖し、その国有化された建物にVCHKが入ってくる。

 1920年からこの建物には内部監獄(秘密監獄)があった。著名なテロリスト、ボリス・サビンコフ、詩人オシプ・マンデリシュタム、ノーベル文学賞受賞者のアレクサンドル・ソルジェニーツィンほか、多くの人々がこの監獄を体験した。銃殺もここで行われた。

Getty Images/Fotobank

 恐怖に陥れるシステムは完璧に作られていた。囚人は、耳をつんざくばかりの大音響のモーター音のなか、のろのろと動く貨物用エレベーターにのせて上の階に 運ばれたり、数多い暗闇の廊下や戸口を通って、徒歩で取調室に行かされたりした。3昼夜もぶっ続けで訊問されると、人は現実感覚を失う。

  現在、元監獄のいくつかの部屋がミュージアムとして使用されている。かつては希望者全員に公開されていたが、もう大分前から、入場できるのは特別許可証を持つ者だけだ。

 

鉄のフェリックス 

  ルビャンカの建物の近くにKGBの受付があった。「機関(KGB)」の訊問を受ける羽目になった不幸な人々の親族が、ここへ食品や手紙を届けに来た。時にはKGBのシンパが密告にここを訪れることもあり、その行列は長く続いた。

1991年8月22日の夕方、集まった群衆は、永遠と思われていた「鉄のフェリックス」を台座から引きずり下ろした建設用VCHKの創立者クレーンに歓喜の叫びをあげた。=タス通信撮影

  1958年、以前には噴水があったルビャンカ広場の中心に、BCHKの創建者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が出現した。この銅像は長年にわたり、 1991年にソ連政権が崩壊するまで、弾圧システムの主要なシンボルになった。重さ11トンの銅像の撤去を命じたのは、ソ連崩壊後の最初のモスクワ市長ガブリル・ポポフ氏。8月22日の夕方、集まった群衆は、永遠と思われていた「鉄のフェリックス」を台座から引きずり下ろした建設用VCHKの創立者クレーンに歓喜の叫びをあげた。銅像については多くの伝説が語られ、銅像は純金製だったと言う者さえいた。「フェリックス」像は、撤去された後、展示品保管所に 運ばれ、現在、「ムゼオン」芸術広場にある。ロシアのマスメディアでは時おり、これが元の場所に戻されるのではという話が語られている。