伝説の巡洋艦ヴァリャーグ

それはちょうど110年前、日露戦争開戦の日に起きた。事の発端は、伝説の防護巡洋艦ヴァリャーグの乗組員が降伏より自沈を選んだこと。その敢闘精神は世界中に伝えられて、敵国の日本も感動した。こうしてロシアで生まれた愛国的神話は、今日に至るまで生きているが、その真相は、神話に劣らず英雄的で数奇なものだった――。

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神話の誕生 

 防護巡洋艦ヴァリャーグの艦歴は、1899年に、アメリカのフィラデルフィアのクランプ造船所で始まる。艦が進水し、軍楽隊のマーチが奏でられると、565名の乗組員の「ウラー!」の歓呼が轟いた。アメリカ人技師達は、艦に聖水をかけて十字を切るという奇妙なセレモニーを見て、肩をすくめ、シャンペンの瓶を開けて乾杯した。米国では、シャンペンの瓶を船体にぶつけて割るのが慣わしだから。

 しかしこの時は、ロシア人もアメリカ人も誰も、ロシア海軍の神話の誕生に立ち会っているとは思いもよらなかった。

 間もなく、船の不具合が見つかった――エンジンのシリンダーが破裂したのだ。これに限らず、損傷、破損は、この船の全生涯について回ることとなった。技師達が何か故障を直すと、すぐさま何かが破裂したり、壊れたりするのだった。にもかかわらず、ヴァリャーグは朝鮮半島に回航された。

 

そこは戦場だった 

 まだ故障の直らないヴァリャーグが、仁川港に入港すると、そこでは、大韓帝国の中立をめぐる交渉の最中で、イギリス、イタリア、ドイツ、日本、フランス、米国の船舶が停泊していた。

 1月27日(グレゴリオ暦2月9日)朝、瓜生外吉・第4戦隊司令官が、ヴァリャーグ艦長のフセヴォロド・ルードネフ大佐に、「露日開戦にともない、貴官は、貴官の指揮下にある部隊とともに、正午までに仁川港を退避されたい。退避なき場合は、攻撃する」との最後通牒を送った。

 歴史家達は、ルードネフ艦長はこの提案を利用すべきだったと考える。公海を通ってロシア領に逃れるチャンスはあったからだ。ヴァリャーグは快速で、試運転では24・59ノットを記録しており、機関の故障にもかかわらず、日本の艦船を3~5ノット上回っていた。しかも、ヴァリャーグは舷側に装甲を施しておらず、火力でも、日本艦隊に対して数段劣勢だったので、日本艦隊に戦いを挑める状態にはなかった。

 このときの状況については別の説もある。ベイリー提督が、「戦闘不能」を理由として、英国旗を掲げて武装解除するよう、ヴァリャーグに提案したという。ところがルードネフ艦長は戦う決断をした。

 これが仁川沖海戦で、この海戦は、旅順港奇襲と並行して行われ、日露戦争の発端となった。

 

142の戦い 

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 ヴァリャーグの砲手達の技量は、太平洋艦隊中で最高と評価されていたが、実際、果敢に戦った。 

 ヴァリャーグは僚艦の航洋砲艦コレーエツとともに、14隻からなる日本の艦隊に包囲されたが、少なくとも日本の巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を撃沈した(日本側の報告では損害はなし)。

 だが、多勢に無勢。ヴァリャーグの砲の半数以上が使用不能となり、舷側に開いた穴から海水がどっと流れ込んできた。甲板も穴だらけとなり、血の海に死体が折り重なった。搭載ボートも、金属製のものは穴が開き、木製のものは焼けてしまった。機関は故障し、舵は破壊された。

 日本側による拿捕を免れるため、両艦は、仁川港に引き返し、士官達と短時間協議してから、ルードネフ艦長は「降伏せず、自沈する」との信号を発し、乗組員を退避させた後、キングストン弁を開いた。敢えて海水を注入するまでもなく、浸水はどんどん進み、やがて着底すると左舷に傾き始め、ついに波間に艦影は没した。

 歴史家のなかには、ルードネフ艦長は、被害状況を正確に把握しておらず、まだ戦闘可能な艦を早まって沈め、事実上ヴァリャーグを日本側にプレゼントしてしまったとの意見もある。実際この艦は、翌1905年に引き上げられると、日本に曳航されて、その後11年間は、「宗谷」の名で日本海軍に所属して活動した。

 

死傷者と捕虜 

 ヴァリャーグは戦闘で108名を失った。これは乗組員の5分の1に相当する。負傷者は外国の艦船に救助された。日本人は、ロシア人のサムライ精神に感動し、ヴァリャーグの捕虜を、戦闘に参加しないとの条件で釈放した。

 ところが、ヴァリャーグの乗組員の方はというと、誰も自分達の行為が英雄的だとは思っていなかった。むしろ逆で、例えば、或る一等航海士は、自分とルードネフは艦を失った責任を問われ、軍法会議にかけられると思い込んでいた。

 だが、戦争が進むにしたがい、戦意高揚のために、ヒロイズムと“不屈のロシア”のシンボルが必要になり、その役割をヴァリャーグが負わされることになった。この船を伝説にした最初の歌は、次のようなものだ。

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外国の軍艦旗を掲げて 

 10年ちょっと過ぎて、露日間の関係が正常化すると、ヴァリャーグは、第一次大戦中の1916年に、ほかの鹵獲されていたロシア艦とともに買い戻され、同年、以前のヴァリャーグの名で、北洋艦隊に旗艦として復帰させられた。

 だが、ヴァリャーグは、ロシア海軍の戦闘艦としては使い物にならず、航行中にもあちこちの機械が故障して、応急で「継ぎを当て」ねばならない状態だった。

 そこでヴァリャーグは、全面修復のため、1917年2月にイギリスのグラスゴー造船所に回航されたのだが、間もなく、ロシア革命が勃発。艦からは一人去り、二人去り、人影がまばらになった。半数の乗組員はロシアに呼び戻され、結局残ったのは、水夫、甲板長、下士官が計8人のみ。

 しかも、造船所は「ツケ」で修理することを拒否。ボリシェヴィキ政府には、ヴァリャーグの修理代を払う金はなかった。その結果、ヴァリャーグは、債務のかたに差し押さえられて武装解除――。砲は外され、砲弾は沿岸部の弾薬庫に運び去られ、ライフルの弾薬も抜き取られてしまった。

 無電室には、「トミー」つまりイギリス兵が詰め、マストからはロシア海軍旗(聖アンドレイの旗)を下ろし、イギリスのレッドライオン旗を掲げた。

 とはいえこの巡洋艦は、戦力としては英国にも不要だったので、すぐさま、1920年にスクラップとしてドイツに売り飛ばした。

 ヴァリャーグは、ドイツに向う、最後の航海の途上で、スコットランド南部のクライド湾で座礁してしまったので、そこで一部を解体し、スクラップを艀に載せた。

 だが、その解体作業が拙速になされたため、水中に没していた部分はそのまま放置され、以来80年以上、海底で眠り続けた。

 海底のヴァリャーグをテレビ局「ロシア」が再発見したのは2003年夏のことだ。堅牢なアメリカ製鋼鉄でできた船体は、この長い年月、ほとんど損傷していなかった。