『至聖三者』、1410年
ルブリョフの運命は幸福だったと言える。生前から有名で、年代記や聖人伝に記され、公たちや修道院からイコン画の描画を依頼され、またモスクワ、ウラジー ミル、ズヴェニゴロドで仕事をした。死後も名声が衰えることはなく、ルーシの最初のイコン画家として、何世紀も人々の記憶にとどまっている。ストグラフ大聖堂(1551年)はルブリョフの作品を模範と認めた。
ルブリョフを古儀式派は非常に高く評価し、収集家は作品を手に入れようと必死だった。彼らの目には正当なイコン画術と古代の敬神の念の具象と映った。これにより、イコン画の忘却を思わせた19世紀にも、ルブリョフの名は教会芸術の基準であり続けた。
ソ連時代、ルブリョフの名は古代ルーシ文化の象徴となった。1960年にはユネスコの決定により、ルブリョフ生誕600周年が世界的に祝われた。モスクワにはアンドレイ・ルブリョフ古代ルーシ文化博物館が開設され、主にトレチャコフ美術館が収集したルブリョフの作品には研究者の熱いまなざしが注がれた。
アンドレイ・ルブリョフの像、ウラジーミル=写真提供:Petr Adam Dohnálek
ルブリョフに関する書籍や論文は多数存在するし、その作品は徹底的に研究されている。だが聖苦行者としての人生がいかなるものだったかを我々は知っているだろうか。経歴のデータは極めて少ないため、存在するものをかき集めなければならない。
1360年代に生まれたことはわかっているが、正確な日づけはよくわからない。死亡日は1430年1月29日。
これは恐ろしい時代である。タタール人がルーシを支配し、街を破壊し、教会や修道院で強盗し、人々を捕虜として連れ去っていたし、大公位を目指す公の内乱も頻発していた。1364年と1366年にはモスクワとニジニ・ノヴゴロドでペストが流行し、1365年にはモスクワ大火、1368年にはリトアニアの オルゲルト大公によるモスクワ包囲、1371年には飢饉があった。
この混乱と騒乱の中で、ルブリョフは成長した。両親やまわりの環境については、残念ながら、一切わかっていない。だが姓が何かを物語ってくれる。まず、 当時この姓を名乗っていたのは、有名な人々のみである。次に、代々の職人であることを示している可能性がある。父もしくはそれより昔の先祖が従事していた仕事を、ルブリョフの性が示しているかもしれ ない。ルブリョフ(Rublev)という姓は、たたき切るなどを意味するルビチ(rubit')という動詞や、長い竿、皮をなめす板などを意味するルベリ (rubel')という名詞からきている。
ルブリョフがいつからイコン画を描き始めたのか、誰のもとで学んだのかはわからないし、初期の仕事についてもわからない。最初のルブリョフについての記述は、1405年の年代記にある。ヴァシリー・ドミトリエヴィッチ大公の注文に応じて、モスクワ・クレムリンの生神女福音大聖堂の装飾画を集団で描いた。 この集団を率いたのは、フェオファン・グレク、ゴロデツのプロホル長老、アンドレイ・ルブリョフ修道士の3人の職人。ここで名前がでてくるということは、 当時すでに尊敬される職人になっていたということであるが、3番目ということは、この中で一番の若手だったということである。
ルブリョフは修道士だったが、アンドレイという名前はどうやら、出生名や洗礼名ではなく、修道名だったようだ。修道士になるための剃髪式を受けたのは至聖三者修道院で、ここに立ち会ったのはラドネジのセルギイの弟子かつ継承者であるラドネジのニコン。これは18世紀の手書きの書物に記されている。至聖三者修道院にもその後、ルブリョフの多くの作品が関係してくる。晩年は、同じくラドネジのセルギイの弟子であるアンドロニクが創設した、聖アンドロニク修道 院で暮らし、ここでその生涯を閉じた。
次にルブリョフについての記述がでてくるのは1408年の年代記。ウラジーミルの生神女就寝大聖堂の装飾画に関するもの。ルブリョフは自身の「友人かつ 共同斎戒者」と呼ばれた、イコン画家のダニイル・チョルヌイとともに、この仕事を完成させた。同じく修道士だったダニイルは、「黒い」を意味するチョルヌイと いう姓から、ギリシャ人かセルビア人だった可能性がある。年代記ではチョルヌイが先に記されているため、年齢か階級で上の人間だったということである。 チョルヌイとの関係はずっと続くが、それはルブリョフが死去するまでと言っても過言ではない。
ウラジーミルの生神女就寝大聖堂はロシア正教会の大聖堂と考えられていたため、その装飾画を描く仕事は責任重大だった。12世紀に建設されたものの、タタール・モンゴルの襲来があった1238年に装飾画は台無しになり、ヴァシリー・ドミトリエヴィッチ大公の注文に応じて、再び描画された。
1420年代半ばにルブリョフとチョルヌイは、至聖三者聖セルギイ大修道院の至聖三者大聖堂の描画を指揮した。装飾画は現在まで残らなかったが、イコノスタス(聖障)はある。ルブリョフはこの大聖堂のために有名な「至聖三者」イコンも描いた。三位一体の教理が見事に絵になっている。年代記によると、これは「克肖者セルギイを追悼、称賛する」ために、ラドネジのニコンが注文したイコンだという。
ルブリョフは「ヒトロヴォの福音書」などの細密画も描いている。古代ルーシの芸術家は挿絵を多く採用し、修道士はその広く普及した勤めのひとつでもある、本の書き写しや装飾を行っていた。古代ルーシの修道院の書籍文化は極めて高尚で、修道士の読書の輪は多様であった。ルブリョフもたくさん本を読み、当時としてはかなり教養のある人物だった。
聖アンドロニク修道院の救世主大聖堂のルブリョフ装飾画は、残念ながら、現代まで残っていない。
ルブリョフの死後まもない15世紀に、至聖三者聖セルギイ大修道院と聖アンドロニク修道院で、克肖者アンドレイ・ルブリョフの教区内崇拝が定められた。全教会でアンドレイ・ルブリョフが聖徒の列に加えられたのは、1988年のことである。
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