ルイス・B・メイヤー(左側)とニック・シェンク=Getty Images/Fotobank 撮影
ボルガ河畔のルイビンスク育ち
ハリウッドの将来の草分けは、ボルガ河畔の小さな街ルイビンスクで育った。父のハイム・シェインケルは汽船会社の支配人だったが、アメリカに移住した。19世紀末から20世紀初めにかけて、ロシア帝国に住んでいたユダヤ人の多くが、同じ運命をたどった。
ジョー・シェンク=Getty Images/ Fotobank撮影 |
シェインケル家が住み着いたのは、ニューヨークのローワー・イースト・サイド(Lower East Side)で、その後ハーレムに移った。苗字はアメリカ風に短くしてシェンクと改め、名前もニコライをニックに、ヨシフをジョーにした。
兄弟は初め、路上で新聞の売り子をしていたが、ふと駅で、何百人もの人たちが汽車を待ちながら、暇をもてあましているのに気がついた。兄弟は、ビヤホールの隅を借りて、人々のためのちょっとした娯楽を考え出した。
そうこうしているうちに、そのビヤホールで彼らは、劇場の支配人をしていたマーカス・ロウと知り合いになった。彼は後に、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の社長となる人物だ。
MGM社長として辣腕振るう
結局、兄弟二人とも映画界の重鎮となったが、それぞれの運命は非常に違っていた。ニックは、ロウと組んでの仕事を続け、やがてMGM社長に上り詰める。1932年頃には、ドル箱の映画館と映画会社のネットワークを傘下に収める。ニックは全米最高の富豪の一人となった。
MGMの無声映画時代の銀幕を飾ったのはグレタ・ガルボなどで、トーキー時代になると、キャサリン・ヘップバーン、ビビアン・リー、クラーク・ゲイブル、フレッド・アステアなど大スターがずらり。MGMの映画は、計200以上のオスカーをもたらした。『オズの魔法使い』、『風と共に去りぬ』、『雨に唄えば』、アニメの『トムとジェリー』など、不朽の傑作は枚挙に暇がない。
ニックは、剛腕の才能豊かな経営者で、世界恐慌時代も含め、この巨大企業を理想的に運営していくことができた。
マリリン・モンローをスターに
一方、ジョーは、弟とロウから離れて、西海岸に新天地を求めた。1924年に彼は、ユナイテッド・アーティスツ社の共同経営者となり、2年後に社長となった。同社は、無声映画時代のスターであったチャーリー・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、そして監督のデビッド・グリフィスによって、創造の自由を求めて設立された独立映画スタジオだ。
ジョーはそれから10年足らずの間に、さらに、「20世紀ピクチャーズ」を創設した。1935年に「20世紀フォックス」に合併されると、その会長に就任する。
ジョーは、「映画芸術科学アカデミー」の創設者にも名を連ねている。最も権威ある賞「オスカー」を創ったのは、このアカデミーだ。
ちなみに彼は、マリリン・モンローの運命においても、決定的な役割を果たしている。1946年に彼女がスタジオに現れたとき、ジョーはすっかり惚れ込んでしまい、彼女のキャリアを後押ししたのだ。
1952年にジョーは、映画産業の発展における彼の多大な貢献に対して、オスカーを授与され、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(ハリウッド名声の歩道)に名を刻んだ。
ロシアでも連邦解体後に認知
ところがロシアでは、シェンク兄弟が知られるようになったのは、ようやくソ連崩壊後の90年代のことだ。理由は明らかで、「鉄のカーテン」の下では、“怪しげな人物”について語るわけにはいかなかった。
今では、兄弟の故郷のルイビンスクに、記念プレートが建てられ、ボルガ川のクルーズ船に乗り遅れた旅行者を、ここに連れて来ている。
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