ロイター通信撮影
もちろん、古典ブランドは今も健在だが、西側の大きな書店を覘けば、どこの国民文学も、必読の作家どころか、わずか数タイトルに絞られているありさまだ。トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフがあれば、もう十分で、ソルジェニーツィン、パステルナーク、ブルガーコフがあれば、かなりのもの。新しい作家のなかでは、ペレーヴィンやアクーニンを加えたいところだが、なかなかそうもいかない。あとは、文学エージェントの腕次第。たとえば、ウラジスラフ・オトロシェンコは、一流作家というわけではないが、イタリアではさかんに翻訳されている。誰かが、こんなナボコフのような名文家ならイタリアの市場で受ける、と踏み、その思惑が的中して、めでたく出版されることになった。
大作家でも売れない微妙な理由
ロシアで人気のある作家たちが、翻訳された国でも流行るとは限らず、そうした例は、枚挙に暇がない。それは、あまりにもロシア的あるいはローカルであるというためばかりでなく、なかなか捉えがたい社会学的な理由にもよる。取引所の相場と同様、きわめてセンシティブな状況と結びついているものなのだ。
ロシア文学の水準は、依然としてひじょうに高いが、それを他のコンテキストへ置き換えることは、きわめて困難であり、ほとんど不可能である。全人類的フェルメントなるものがあるが、国民文学において、それは少なく、重視されていない。それゆえ、輸出品となるひじょうに大きなチャンスを有しているのは、亡命作家ということになる。たとえば、英語で随筆を綴ったヨシフ・ブロツキー、ドイツ語で書くウラジーミル・カミネル、フランス語で記すアンドレイ・マーキンやアンドレイ・クルコーフらは、かなり受けがよかった。しかし、ナボコフには遠くおよばず、この作家がロシア人であることに気づかないアメリカ人さえいる。はたして、それはロシア文学か否か?
それぞれのお国の事情
最近、筆者は、ハリウッド映画(「愛を読む人」)にもなったベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を読み、この小説がとてもよく練られており特定の読者の心を掴むものであることに驚嘆した。過去を捉え直す道を模索する世代、ホロコースト、戦争、ナチズム…。自分の小説を外国の読者に読んでもらうことは、ひじょうに難しい。シュリンクは、ドイツ語で書いているが、世界じゅうで読まれている。それは、他の国々とは異なりナチズムの負の遺産にまさにそんなふうに向き合っているドイツに、世界が関心を寄せているためであるが、これは、おそらく例外であり常態ではない。
私たちは、かつて、トーマス・マンが米国で流行らなかったかわりに、もしかするとヘミングウェイ以上にロスト・ジェネレーションの心理をみごとに描写したレマルクが好評を博したのを知っている。トーマス・マンは、またしてもこんな大陸的な代物そして形而上学、などと叩かれたものだった。
ある日本の教授の発言
あるアメリカでの会議で、日本の教授が、こんな発言をしたことがあった。「私は、これまでずっとロシア文学を研究してきましたが、ロシアの散文には主に四つの特性が見てとれるように思います。一つ目は、途方もなく大きなもの。二つ目は、教訓的なもの。三つ目は、ユーモアに欠けた陰鬱なもの。そして、四つ目は、読者より自分を高く置く作家の傲慢さ。とはいえ、この四つがすべてあべこべなセルゲイ・ドヴラートフのような作家もいます。教え諭すようなところは微塵もなく、彼は、読者と対等に語り、簡潔かつ滑稽に綴っています」。
その日本の教授は、やや誇張した感がある。ロシア文学は、けっして上から目線ではない。問題はそういうことではなく、市井の人にとってあまりにも深く問題を掘り下げている文学なのだ。ロシア性のフェルメントを挙げるとすれば、それは、文学をハイパーテキストとして捉えているところにある。それは、自らの境界を越えて、伝道のように生活へ注ぎこむ。そうした捉え方は、世界でもさほど珍しいわけではなく、おそらく似たようなものもあろうが、それを変換し翻訳するのは、まさに至難の業といえよう。
ドミトリー・バク、ロシア国立人文大学教授、文学博物館館長
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