写真提供:User№101、wikipedia.org
建てたのは、ノヴゴロド公ウラジーミル。彼は、キエフ大公のヤロスラフ1世(賢公)の息子で、キエフの同名の大寺院の荘厳さをノヴゴロドの地に再現しようとしたが、それとはまた違った中世建築の傑作となった。
1046年の定礎式には、父の賢公と母イリーナ(スウェーデン国王オーロフの娘)も、キエフからはるばる当地を訪れ、列席している。
1050年に完工した聖堂は、5つの身廊と6つのクーポル(丸屋根)をもつ巨大なもので、建物の大きさに比して採光部分が少ないので、内部はほの暗い。
内装は、モザイクではなく、フレスコ画が描かれているが、創建当時の画は一部しか残っていない。
堂内には、ノヴゴロド公ウラジーミル、その母イリーナなどの遺体が安置されている。
この聖堂を訪れてすぐに気が付くのは、その音響の素晴らしさだ。ここで聞く聖歌の重厚で透明な響きは喩えようがない。
ユニークな古都
ノヴゴロドは、歴史的にも地政学的にもユニークな位置を占めてきた。
ロシア北西部にあったノヴゴロドは、モンゴル軍による破壊をまぬがれたが、東方植民を進めるドイツ騎士団やスウェーデン、ノルウェーなどにより、西方から脅かされていた。
ノヴゴロドは、広大な後背地からあがる毛皮と中継貿易で繁栄しており、西欧諸国にとって垂涎の的だった。
歴史的舞台
ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーが、1240年に「ネヴァ川の戦い」でスウェーデン軍を破ったとき、アレクサンドルは戦いを前に、聖ソフィア大聖堂での祈祷式で、「敵が大軍だとて恐れるな。神は我らとともにある」と、戦士たちを励ましている。
1570年にイワン雷帝がノヴゴロドを攻め、数万の市民を虐殺、処刑したときは、どこからともなく鳩が飛んできて、大聖堂の十字架上にとまって周囲の地獄絵図を見るや、そのまま石になってしまった、という言い伝えがある。
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