ソ連の秘密警察初代長官ジェルジンスキー生まれる

写真提供:ロシア通信

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1877年の今日、9月11日に、ソ連の秘密警察の初代長官となるフェリックス・ジェルジンスキーが、ポーランドの貴族の家庭に生まれた。

「信念のためとあらば、どんなことでもやりかねない」 

 ジェルジンスキーは、20歳前から革命に生涯を捧げることを決意し、爵位も継がず、革命運動に身を投じて、逮捕、流刑を繰り返した。

 1897年に20歳で、労働運動を指導したかどでシベリアに流刑されたが、その際警察は、「この青年は、信念のためとあらば、どんなことでもやりかねない」と資料に記した。さすがに警察は人を見る目がある。

 1906年には、ポーランド・リトアニア統一社会民主党を代表して、ロシア社会民主労働党の中央委員となる。十月革命に際しては、武装蜂起と暴力革命を支持した。

 

「断固たる処置」を命じられる 

 革命後に内戦、外国軍の干渉が始まると、レーニンは、反革命勢力に対する「断固たる処置」を軍事委員であったジェルジンスキーに命じる。

 1917年12月、ジェルジンスキーは、KGBの前身である「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(チェーカー)を創設し、反対派の弾圧に辣腕を振るった。

 

矛盾を強いる時代 

 ジェルジンスキーにとって問題は、反革命派だけではなかった。戦乱、飢餓、生きんがための窃盗、強盗、殺人が日常化した修羅のなかで、いかに秩序を回復させるか。公式統計で、ロシア全国に約500万人の浮浪児がいたという時代だ。

 ジェルジンスキーは、犯罪者を容赦なく取り締まる一方で、「児童の生活の改善委員会」の議長を務め、孤児院創設に尽力し、医療や教育に配慮した。

 しかし当時の状況では、孤児院に入れたのはごく一部にすぎす、収容されなかった者は、やはり生きるために盗むしかない。そういう者は、同じジェルジンスキー自身の手で、厳しく処罰されることになる。右手でほんの一握りを救い、残りは左手で罰する・・・。

 ジェルジンスキーは、故郷で教育大臣として復興にあたる夢をもっていたという。これは彼の本音であったかもしれない。

 1926年、心臓発作で死去。