写真提供:senekin / wikipedia.org
チャイコフスキー・コンサートホールは、モスクワ音楽院大ホールとならぶ、モスクワの音楽の殿堂であり、ソ連、ロシアの綺羅星のごとく並ぶ名演奏家たちがここに出演してきた。
チャイコフスキーの生誕100年を記念して開館。1940年10月12日に、交響曲第6番『悲愴』、ピアノ協奏曲第1番など、この作曲家の作品の演奏で、こけら落としのコンサートが行われた。
高射砲部隊のために屋上でコンサート
しかし、翌1941年6月22日に独ソ戦が始まり、8月にはスモレンスク、キエフ、ハリコフがあいついで陥落。ドイツ軍は9月に、モスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)を始動させる。
独軍がモスクワに迫るなか、チャイコフスキー・ホールは、1941年の第2シーズンも、9月2日に開館し、1941年10月5日には、戦時下初のコンサートが行われた。
以後、戦時中も閉鎖されることなく、戦時下のコンサートの回数は約1500回におよんだ。屋根には高射砲が設置され、独軍の空襲が始まると、聴衆は地下に設けられた防空壕に避難した。1941年秋には、高射砲部隊のために、屋上で特別コンサートが催されたこともある。
元はメイエルホリド劇場
チャイコフスキー・コンサートホールは、北京ホテルや詩人マヤコフスキーの巨像がある勝利広場(旧マヤコフスキー広場)に位置する。
この場所にはもともと、20世紀初頭には、フランス人興業主が運営する「ブッファ・ミニアチュール」劇場があり、ロシア革命後は、その建物が、1922年に、大演出家フセヴォロド・メイエルホリド(1874~1940)に下げ渡された。
以来ここで、クロムランクの『堂々たるコキュ』、マヤコフスキーの『ミステリア・ブッフ』、『南京虫』、ゴーゴリの『検察官』など、演劇史を飾る数々の名舞台が上演されてきた。
劇場の大改築
1932年には、メイエルホリドは、劇場の大改築を始める。その構想によれば、舞台をホールのあちこちに場所に移動でき、観客と舞台が融合した、極めて斬新なものになるはずであった。
しかし、メイエルホリドの前衛芸術は、当局に敵視されるようになり、劇場は1938年に閉鎖、メイエルホリド自身も1939年に逮捕され、翌年、銃殺されてしまう。
彼と親しかった作曲家ショスタコーヴィチが、「彼には電流のように人をインスパイアさせる力がある」と評した天才だった・・・。
メイエルホリドのコンセプトは残る
1938年の閉鎖時までに、劇場の建物そのものはほぼ終わっており、内装を残すだけとなっていた。建建物は、モスクワ・フィルハーモニーに引き渡され、コンサートホールに改装される。
このホールの内部は、ステージを客席がぐるりと取り囲む形になっており、古代ギリシャの円形劇場を思わせるが、これも、メイエルホリドのコンセプトであった。
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