画家イサーク・レヴィタン生まれる

イサーク・レヴィタン「永遠の平和の上に」(1894) 画像提供:wikipedia.org

イサーク・レヴィタン「永遠の平和の上に」(1894) 画像提供:wikipedia.org

1860年の今日、8月30日(ユリウス暦8月18日)に、ロシアを代表する風景画家イサーク・レヴィタンが生まれた。

 イサーク・レヴィタン(1860~1900)は、リトアニアの貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。父イリヤはラビの息子で、独学でドイツ語とフランス語を習得し、学校で教えたり、通訳したりしていた。

 父は家族を連れて、1870年代初めにモスクワに移った。有利な仕事を探し、子供たちに良い教育を受けさせるために。

 1873年秋、レヴィタンは、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入った。教授陣は、ペローフ、サヴラーソフ、ポレーノフといった当代一流の画家たちで、レヴィタンはまもなく、その才能と努力で、師たちの注目を引くようになる。

 1875年に母が、1877年には父が相次いで亡くなり、一家は文字通り、貧乏のどん底に落ちたが、レヴィタンは奨学金220ルーブルを与えられ、学費を免除されたので、なんとか学校を続けることはできた。

 

逆境のなかから 

 ところが1879年、アレクサンドル2世の暗殺未遂後、ユダヤ人は「古よりのロシアの首都」に住むことはまかりならぬ、との勅令が出たため(犯人はユダヤ人ではなかったのに)、1年ほどモスクワ郊外に移らざるを得なくなった。

 公園の小道を貴婦人が一人歩んでいる「ソコリニキの秋の日」は、この年の作品で、翌年にパーヴェル・トレチャコフに買い上げられている。

 80年代前半から、レヴィタンならではの傑作は枚挙にいとまがなくなる(例えば、サッヴィンスカヤ・スロボダーの景色を描いた一連の作品)。

 85年4月には、同年生まれの作家アントン・チェーホフと知り合い、終生友情を結ぶ。

 特筆すべきは、88年春に、恋人ソフィア・クフシンニコワや友人の画家たちと、ヴォルガ沿岸のプリョス(現在イワノヴォ州に所属)を訪れたことだ。この地の景観はレヴィタンをインスパイアし、約200もの作品を生み出した。

 

悪化する健康 

 レヴィタンの名声はとみに高まったが、幼い頃からの貧乏暮らしと心労もあって、健康状態は次第に悪化し、30代の半ばには不治の病人だった。二度もチフスに罹患して、動脈瘤ができ、心臓が弱っていった。

 1900年8月3日、40歳の誕生日を目前に彼は帰らぬ人となった。創作意欲は最後まで旺盛で、約40点の未完成の作品と300点のエチュードがアトリエに残されていた。

 文字通り「白鳥の歌」となったのが未完の傑作「湖。ルーシ」。

 レヴィタンの代表作には他に、「白樺林」(1889)、「ウラジーミル街道」(1892 *これはモスクワからウラジーミル方面に向う古い街道で、シベリアに流刑になった囚人は皆ここを通っていった)、「晩鐘」(同)、「黄金の秋」(1895)など。彼の絵の透明感と輝き、そして静謐さは一度見たら忘れられまい。

 

「永遠の平和の上に」 

 あらゆる画家のあらゆる絵画のなかで最もロシア的とも言われる「永遠の平和の上に」(1894)は、その点少し違う。薄日は差しているが暗鬱な雲が垂れ込め、巨大な湖面に面した高い岸辺に、木造の教会が頼りなくポツンと立っており、その後ろには、見棄てられた墓標が傾いでいる。その教会の窓には小さな小さな灯りが燃えている――。

 レヴィタンは1894年に5月に、この絵を買い上げたトレチャコフに、「この絵には、私のすべてがあります――私のあらゆる心の動き、私の一切が」と書いている。

 また他の手紙では、「永遠、恐ろしい永遠。そのなかに幾世代が埋もれ、またこれから埋もれていくことか・・・」とも言っている。

 だが、この異常なほどに静かな絵を見ていると、いかにも人生のあらゆる道程の終着点という感じがして、「いつかこんな場所に骨を埋めてもらうのも悪くないなあ」などと思えてくるから不思議だ。それは、ロマン主義的な自然との一体感とか逃避とかいった、手垢のついた事柄とはなんの関係もない。

 この絵には、なにか絶対的なものが表されている。それはおそらく言葉では表現できないものだ。

 

イサーク・レヴィタンの絵画(英語)