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― チャイコフスキーの伝記映画で作曲家のごく私的な生活の細部を描く必要があるとお考えですか?
同性愛のことですか? チャイコフスキーが同性愛者であったとは限りません。俗物たちがそうみなしているだけで、俗物の信じることを映画に描く必要はありません。
— でも、あなたのシナリオには、明らかな仄めかしがあります。たとえば、チャイコフスキーの教え子たちが師の性癖のことをあからさまに論じる場面などです。
詩人、散文家、脚本家で、歴史上の人物に関するシナリオの名手として知られる。主な作品は、アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンについての『モレク神』、ウラジーミル・レーニンについての『牡牛座:レーニンの肖像』、昭和天皇についての『太陽』(以上3作は、アレクサンドル・ソクーロフ監督が映画化)、悲劇の生物学者を描いた『ニコライ・ヴァヴィーロフ』(アレクサンドル・プロシキン監督が映画化)、詩人で作家のヴァルラーム・シャラーモフについての『レーニンの遺言』(ニコライ・ドスタリ監督が映画化)。
周囲の人たちがみんな信じている根も葉もない話があるのです。私のシナリオにおける表題の主人公は、男好きという世間の目につきまとわれた、家族のない人物です。たしかに、ボーバ(ウラジーミル・ダヴィードフ、作曲家の甥)を愛し、最後の交響曲を彼に捧げましたが、それは、プラトニックな感情でした。私のシナリオでは、チャイコフスキーは、噂に苛まれ、苦しんでいます。友人の法律家たちが作曲家を良心の裁きにかけたという話もあり、私は、チャイコフスキー自身の悪夢という形でそのエピソードを取り上げました。
同性愛について云々することには反対です。とくに芸術において。『チャイコフスキー』のシナリオは五つありましたが、最後のシナリオでは同性愛には一切触れられていません。私はこのテーマにはまったく無関心なのです。人はベッドのなかでは好きなことをすればいいし、その営みを社会の裁きにかけるべきではありません。なぜなら、それはソ連時代の“モラル”の議論に似てくるからです。撮影の過程で脚本とはまったく違うものが現れてしまうというのは、またべつの話です。私は、ことさら同性愛を宣伝する映画には首を傾げます。その分野は、芸術の埒外にあるのではないでしょうか。
私は、このシナリオで、すべての芸術家に共通すると思われる問題を描きました。それは、19世紀に人々を動揺させ、今も揺さぶりつづけています。社会は私たちをいかに規定し、私たちは実際には何者なのか、という問題です。社会は私たちをあるがままには見ていませんが、最悪なのは、私たちが地獄の業火のようなものにつきまとわれる場合です。
— 「社会的に重要」で「愛国的」な映画を創るべしという文化省のイニシアチブをどう捉えていますか?
中学校のカリキュラムの枠内で鑑賞される特別の伝記映画を作るのと、一般に公開される映画を作るのは、べつのことです。私は、愛国心は人文教育によってのみ養われると思います。学校でロシアの歴史、文学、音楽を学べば、自ずと愛国者になるのです。この国の歴史には、敗北ばかりでなく輝ける勝利もあり、19世紀および20世紀初頭のロシア文学は、今も世界の尊敬を集めています。
愛国者を育てるには、無知蒙昧な国に歴史のイロハが教えこまれた1930年代の映画の轍を踏む必要はありません。この国には、今日、中学校がありますから。映画は、もっと複雑で議論の余地のある問題にかかわるべきです。今のところ、文化省は教育省になろうとしていますが、こうした動きに私は懐疑的です。歴史学者でもあるウラジーミル・メジンスキー文化相は、ロシア文化が金めっきではなく、人類が悩み続けてきた「忌まわしき問題」で際立つことを欲しています。ロシアの強さは、まさに永遠の問題を取り上げることにあるのです。
とはいえ、問題はそこにではなく、私たちが、お話にならない額の国家の資金では存続できないという点にあるのです。国家には、オリンピック、スコルコヴォ、年金の支給など、もっと大切な事業があることは承知しています。私たちには、予算からの補助は必要ありません。権力のそばにいる人たちに私が求めているのは、映画がビジネスとして成立することなのです。現在、10本のうち9本は赤字なのでビジネスどころではありませんが、規制が「上から」緩和されれば活況が生まれます。そうしたことがないかぎり、国家の資金で商業映画を制作しようとする私たちの試みは、とんだお笑い草です。国家は映画芸術を支えることができない、このことは公言すべきでしょう。
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