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ヴランゲリ家は、13世紀にさかのぼる古い貴族の家柄で、父は美学者だった。ヴランゲリはサンクトペテルブルク鉱山大学を卒業したが、鉱山技師にはならず、1901年に近衛騎兵連隊に入る。
日露戦争、第一次世界大戦に従軍し、1917年1月、陸軍少将に昇進。
ロシア革命後に内戦が始まると、ヴランゲリは、翌1918年8月に反革命の「義勇軍」に入る。
烏合の衆にもチャンス
白軍は、君主制主義者から自由主義者、共和主義者、コサックまでをふくむ、“烏合の衆”で、一貫した連携行動はとられなかった。しかも、指導者の多くは、旧体制を標榜しており、民衆の広い支持をえることもできなかった。
しかし、その白軍にもチャンスが来る。シベリア鉄道を移送されていたチェコ軍団が、わずか3万ほどの兵力で、瞬く間に沿線と西シベリア一帯を支配下に置いたのをみて、欧州列強が――そして日本も――いっせいに干渉軍を送り込んできたからだ。
赤軍の勝因
だが、ボリシェヴィキは、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)、モスクワの両首都をはじめ、人口稠密で、多くの工業地帯をもつ中央ロシアを抑えており、兵力の動員と武器調達の面で、白軍より有利だった。軍事を担当する人民委員(大臣)だったレフ・トロツキー以下の指導力、組織力でもまさっていた。
結局、一時はウラル以東を支配したコルチャークの独裁政権も、19年末に崩壊し、コルチャークは銃殺され、南部で戦ったデニーキンも、20年4月に指揮権をヴランゲリに移譲して、自分は亡命してしまう。
敗戦処理
ヴランゲリにできることは、敗戦処理しかなかった。彼は、白軍のそれまでの政策を180度転換し、土地の大部分を農民に分配する土地法を5月に公布し、北カフカスの独立を認めた。ウクライナの独立も認める方向に傾いていた。
いかに事態が絶望的だったかがわかるが、そこへ、イギリスが援助打ち切りを通告してくる。ヴランゲリは、「この通告は最後の希望を奪った」と、のちに回想録に書いている。
1920年11月、ヴランゲリは、残存勢力約10万人とともに、クリミアから亡命した。この時をもって、3年余にわたった内戦は、日本が出兵を続ける極東をのぞき、ひとまず終結した。
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