フメリニツキーがポーランド軍に勝ち条約結ぶ

1649年の今日、8月18日(ユリウス暦8月6日)に、ウクライナ・コサックの指導者ボグダン・フメリニツキーが、ポーランド軍に勝利してズボーリウ(ズボリフ)条約を結んだ。この勝利は、ポーランドの衰退とロシアの台頭につながり、欧州の政治地図を塗り替えることになる。

 当時、ウクライナは、大国ポーランドの支配下にあった。同国の版図は、バルト海から黒海にまで達し、欧州列強の1つだったが、問題もあった。王権が弱く、さまざまな宗教と民族を内に抱え、しかもそれらが複雑な支配・被支配の関係にあるなど、火種は少なくなかった。

 

ポーランドの支配を脱する 

 「フメリニツキーの乱」のきっかけは、1647年に、ポーランド系の貴族が、フメリニツキーの領地を襲って、家族を殺害し、その領地を奪おうとしたことだ。

 フメリニツキーはコサックに反乱を呼びかけ、これに、モンゴル帝国の流れを汲むクリミア・ハン国が加わり、大反乱の幕が切って落とされる。

 フメリニツキー軍は、北上しつつ、ポーランド軍を次々に打ち破り、48年秋にはポーランド本国に侵入し、ワルシャワに迫る勢いとなった。

 しかし、フメリニツキー軍も、食糧不足や疫病に苦しみ、休戦に応じる。両軍は、49年8月18日にズボーリウ(ズボリフ)条約を締結し、その結果、ウクライナはコサック領となって、ポーランドの支配を脱した。

 

四面楚歌 

 ポーランドは、フメリニツキー軍との和平交渉のかたわら、別個にクリミア・ハン国とも交渉しており、賠償金の支払などを提示して、寝返らせることに成功する。

 ウクライナは、単独ではポーランドに対抗するのが難しく、初めはトルコとの同盟を模索するが、正教会が反対した。

 結局、ロシアのアレクセイ帝に同盟を提案し、援軍を乞う。ところが、ロシアはなかなか首を縦に振らず、困ったフメリニツキーは、ついに保護国になることを申し出る。

 

新たな宗主国ロシア 

 ロシアは1654年春、ウクライナ・ポーランド戦争に参戦し、ポーランドを圧迫していく。その代わりウクライナは、今度はロシアという宗主国の支配下に組み込まれていくことになった。

 前途を憂いたフメリニツキーは、スウェーデンへの接近を図るが、1657年に病没する・・・。