ニコライ・カサートキン
俗名は、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンで、 スモレンスク県ベリスク郡で輔祭の息子として生まれる。スモレンスク神学校で成績優秀であったため、推薦されて、1857年にサンクトペテルブルク神学大学に入学する。
ゴローニンの『日本幽囚記』を読み、日本伝道を志す
カサートキンは、在学中、ワシーリー・ゴローニン(ゴロヴニン)の『日本幽囚記』を読んで、日本への関心をかきたてられ、日本伝道を志すようになる。
折りよく、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭の募集があり、志願して1861年にその職に就く。
日本を理解するための勉強は、およそ徹底したもので、元大館藩軍医の木村謙斉から日本語、日本史、東洋の宗教、美術などを7年間学び、学僧から仏教を学んだ。
木村謙斉が函館を去ると、後に同志社を創設する新島襄から日本語と『古事記』を教わり、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。
日本人司祭・沢辺琢磨
慶応4年4月(1868年)には、後に日本人最初の司祭となる沢辺琢磨らに洗礼を施した。
同年、新島が米国に密航するに際しては、琢磨らが手助けしている。
さらに、漢学者の中井 木菟麻呂(なかい つぐまろ)とともに、祈祷書と聖書(新約すべてと旧約の一部)を翻訳した。露和辞典の編集も行っている。
増上寺の高僧に仏教を学ぶ
1873年(明治5年)に、明治政府が禁教令を廃すると、公の布教が可能になった。ニコライは、補佐のアナトリイ・チハイに函館をまかせて東京に移り、東京、東海地方、関西で活発に布教活動を行う。一方、ニコライの日本研究は続き、増上寺の高僧に仏教を学んでいる。
1875年(明治8年)、琢磨は日本人初の司祭に叙聖されたのをはじめとし、日本人の聖職者も徐々に増え、ロシア正教の神学校も創設される。
10年余で信者が6千人を超える
上京から約10年後の明治12~13年頃には、ニコライ主教を筆頭に、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263と目覚しい発展を遂げる。
ちょうどこの時期、明治13年に、日本人のイコン画家を育てるために、ニコライは女流画家の山下りんをペテルブルク女子修道院に留学させた。彼女は1883年に帰国し、ニコライ堂のイコンなど、数多くのイコンを描く。
やはりこの頃、1882年(明治15年)、神学校の第一期生が卒業すると、ペテルブルクやキエフに留学生を派遣する。
日露戦争中も日本に留まる
1891年には、紆余曲折を経て、東京・神田駿河台に、「ニコライ堂」の通称で親しまれているハリストス復活大聖堂を完成させた。
1904年、日露戦争が避けがたい状況になってくると、ニコライは、2月7日に司祭と信者の集会を開いて、日本に留まると宣言する。奇しくも2月8日の開戦(旅順口攻撃)の前日であった。
1912年(明治45年)2月16日、生涯を日本での伝道に捧げたニコライは、神田駿河台の正教会で逝去した。
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